童話作家 北沢彰利

童話作家 北沢彰利

北沢彰利

KITAZAWA AKITOSHI 物書き
Interview

人が「迷う」中で発する感情や心の動きを捉え、人間というものを伝えていきたいという童話作家の北沢さん。童話だけでなく、『森の赤鬼 C・W・ニコルの軌跡』の執筆や演歌歌手・小沢あきこの『風恋し』の作詞をされるなど、様々な顔をお持ちです。生い立ちや文学を志すきっかけ、学生時代のエピソードなど、多岐に渡ってじっくりとお話を聞かせていただきました。読み応えは保障いたします。ではどうぞ!

TAKAMORIJIN File No.032

北沢彰利

KITAZAWA AKITOSHI

物書き

物書き

物書き

大学卒業後、教員となり、業務の傍ら、児童文学作家としても活躍。日本児童文学者協会、信州児童文学会に所属し、黒姫童話館の館長を2022年まで務める。2023年に小沢あきこの活動30周年記念曲『風恋し』の作詞を手掛ける。他、『森の赤鬼 C・W・ニコルの軌跡』等のノンフィクション作品も執筆。理知的で朗らかな文学者らしいお人柄。

地域の森や自然

童話作家 北沢彰利

北沢さんは童話作家さんということで、本日は根掘り葉掘り聞かせていただければと思います。よろしくお願いいたします。

そんなに大した中身があるわけじゃないですよ(苦笑)。

いえいえ(笑)。『森の赤鬼 C.W.ニコルの軌跡』(日本の自然保護と森の再生に身を投じた作家C・W・ニコルの80年の生涯を追った伝記 北沢さんが信濃毎日新聞で連載していた作品)も読ませていただきました。

ありがとうございます。

黒姫童話館の館長もお勤めでしたよね。

私は元々教員なんですよ。この辺りの小中学校に勤務していたんです。若い時から教員として勤務しつつ童話を書いていて、退職してからも童話を書く仕事を続けたいと思ったので、退職して2年くらい経ってから、信濃町にある黒姫童話館の館長の依頼を受けたもので、そこで5年間勤めました。
(黒姫童話館の辺りは)景色が美しいところです。ミヒャエル・エンデ(『モモ』などで知られるドイツの童話作家)の特集を信濃毎日新聞が組んでいましたが、童話館に彼の資料がほぼ寄贈されてるんですよ。彼が(童話館を)気に入ってくれて、寄贈してくれたんですね。あとは、松谷みよ子さん(『いない いない ばあ』等の作品で知られる児童文学作家)の資料もあります。可愛い絵で有名ないわさきちひろさんの黒姫山荘という別荘があったんですが、その別荘も移築して公開展示をさせてもらっていて、とてもいいところなんですね。

児童文学作家の資料などが世界から集まっている感じですね。

そうですね。

ネット等でも飯田、下伊那の辺りは児童文学作家の方が多いというのを拝見しまして、どういった理由なんでしょうか。

それは“人”ですね。椋鳩十(むくはとじゅう 児童文学作家)って、小学校の国語の教科書にも載っている作家がいますよね。『大造じいさんとガン』という作品でね。あれは戦前に書かれたものなんですけど、彼は動物ものを中心に書かれた童話作家で生まれが下伊那郡の喬木村なんですよ。彼に影響を受けた方ももちろんいるんですが、その後に宮下和男(児童文学作家・2017年没)さんという方がいて、その方が教員をやりながら、私も加入している信州児童文学会の会長も長くお務めになられていて。宮下さんが飯田女子短期大学で教鞭を執られていて、童話の講座を持っていたんですね。その公開講座に集まった方とかを中心にいくつも童話サークルが出来たことがまず理由としてありますね。宮下さんを中心とした流れがあって、童話を志す方が集まってきたということですね。

あと、もう一つは南信州新聞が10年間、伊那谷童話大賞という公募の文学賞をやっていたんですね。その選考委員長に宮下さんが居て、私もまだ若かったんですが、誘われて選考委員をやりまして。この童話大賞が10年続いたものですから、10人の大賞受賞者がいるわけで、そこから童話作家として世に出た方もいらっしゃいますね。そういう土壌の中で童話作家が育っていったということなんですね。

なるほど。環境というより人が理由だったんですね。勝手にこの辺りは静かで執筆環境がいいのかな、とイメージしていました。

私は今、年回りで信州児童文学会の会長をやっていますけど、童話作家、童話作家を志す人を含め会員が60人くらいいるんです。そこで『とうげの旗』という雑誌を作っているんですが、全国的には日本児童文学者協会っていう協会がありまして、会員が900人ほどいるんです。我々はその中の信州支部に属しています。今って活字文化が衰退していますから、もちろん児童文学の書籍も沢山出版されているんですが、児童文学だけで生活できている方って、多分10人もいないと思います。兼業だったり、主婦の方だったり、という方がほとんどです。あとは高齢化が進んでいますからね。そのような全国的な活字文化の衰退の中で、信州は60人の会員がいて、『とうげの旗』も年に3回出していて、若い方も入ってくれているので、長野県は全国的に見ても活気があるんですね。その中で飯田・下伊那というのは、先ほどの理由と相まって児童文学作家が多いんだと思いますし、あとは、自然が、というよりも中央の文化から離れている、というのが大きな理由の一つですね。
中央の文化の中で活動を続けてきた作家さんもいるんですが、やはり子供たちがデジタルなものやゲームに流れていく中で、児童文学も奇をてらったようなものが広がっていっている節はありますね。私はそれを否定するつもりは全然ないんですけど、一方で心が動かされる、わくわくしたり、切なくなったりする作品が少なくなっていったような気がするんです。そんな時に中央の文化から離れたこの自然豊かな土地で、どちらかと言えば地味と思われる児童文学にスポットが当たって、今も活動できている、そんな印象はありますね。すみません、長くなりましたね。

いえいえ。これまでのバイオグラフィーを見させていただくと、この土地に関連したお話や民間伝承に関連したものが多いですよね。

私が出している作品は、どちらかというとエンターテインメントなんですよね。大衆児童小説というジャンルで、そこまでかしこまったものではないんですよ。というのも、私は漫画で育った世代なもので、『鉄腕アトム』といった漫画の影響を物凄く受けたんですね。なので、やっぱり“読者に楽しんでもらいたい”というのが一番なんですよ。

これが最初に出版社から出た作品(『竜馬にであった少年』)なんですけど、これは現代の不登校の少年が自分の人生を悲観して、橋の上から飛び降りたときにタイムスリップをするという話なんですけどね。松尾多勢子(幕末の尊王派女性志士・飯田市の出身)という幕末から明治にかけて生きた方がいるんですけど、52歳の時に京都へ行くんですよ。この方は尊王派の志士なんです。薩摩・長州の尊王派志士が活躍して、新選組が取り締まりをして…という動乱の京都へ向かうんですね。52歳で子供も育ち、孫も生まれ、家が安泰の最中です。凄いでしょ?(笑)

いやはや、すごい話です。

その時代に主人公の少年がタイムスリップして、松尾多勢子と動乱の京都へ旅をして坂本龍馬に出会うわけです。史実でも、松尾多勢子は龍馬に会っていると記述もあるんですが、その坂本龍馬が主人公の少年に言うわけです、「学校なんぞ行かんでよかぜよ。おまんはおまんらしゅう生きれば」という話をしてくれるんです。それで、主人公は自分は自分らしく生きる、という決意を持って現代へ戻るんだけど、学校へは行かずに前向きにフリースクールに通うことを選ぶんです。

それも一つの選択ということですね。

そうそう。この作品は信濃毎日新聞で連載していて、単行本になったんですが、そのときに初めてペンネームを作ったんです。まだ現役の教師でしたから、学校へ行かないという結末はまずいでしょう(笑)。影響が大きいと思いましてね、これはペンネームの方がいいだろうと。「いぶき彰吾」のいぶきは、山のいぶきから取って、「彰」は自分の名前の漢字ですが、表彰の「彰」なので、「我を表す」という意味も込めています。

なるほど。

2000年にこの作品は出版されたんですけど、作品を通して不登校を解決しようとかそういう意味合いは無いんです。主人公として不登校の少年っていう設定を借りただけなんですね。それこそ、『ハリーポッター』だって『ネバーエンディングストーリー』だっていじめられっ子ですよね。やっぱりアウトローの方が主人公としては立ちやすいんですね。読んだ子供たちが思う存分ワクワクしたり、楽しんだり、別の世界を味わったりしてくれればいいな、というのが基本的なスタンスですね。

先ほどもお話されていましたが、教職に就きながら作家活動をされていたとのことで、これは大変ですよね。休日を使いながら、という感じになりますよね。

はい。基本的には土日を使って書いていました。ただ、土日を待って書いていくと糸が切れてしまいますから、平日の夜も書いていました。新聞に連載していた頃は毎日でしたね。

ちょっと話が飛ぶんですが、長野県って教師が絵を描いたり、文芸作品を書いたり、もちろん他の専門領域の勉強をしたりすることに寛容なんですよね。だから、私が童話を書いていることを宣伝したわけじゃないんですが、知っている先生方もいて、それなりに認めてくれるんですね。ただ、教師としてお給料を貰っているわけだから、その仕事はしっかりやろう、ただ早く帰ろうと思ってやっていましたね(笑)

そこは筋を通されていたんですね(笑)

今話題になってるけど、学校っていうのは残業手当が出ませんから、いくら遅くまで仕事をしてもいいし、早く帰ってもいいわけです。私が勤めていた頃は、自分の仕事が終わったら「お先に」と速やかに帰っていました。管理職になってからも、その仕事の仕方で管理職になったんだから、と周りも認めてくれるんですよ(笑)
教頭の職だった時も、教頭というのは一番遅くまでいるものなんですが、自分の仕事が終われば、「後は頑張ってね」とか言って、早めに帰っていましたね。だから、おかげさまでここまで続けることができたのかなと。

この地域だったからこそ続けられた、というのもあるんでしょうね。

それはありますね。県によっては厳しいところがあって、作品を出したら問題になったところもありますからね。そういう意味ではこういう活動している教員に対しても寛容なのは、長野県の信州教育(「信濃教育」とも呼ばれる)が理由ですね。大正時代に武者小路実篤らの「白樺派」がありましたが、そこから影響を受けて、自由主義教育、芸術至上主義的な教育方針が出来たんですね。それこそ、子供たちにずっと絵を描かせるとか、作文を書かせるとか、もちろん批判もあったんでしょうけどね。

その流れが下地にあるんでしょうね。

『とうげの旗』という童話の雑誌を私どもが市販で出していたんですけど、学校注文でみんな扱ってくれて、多いときには長野県だけで2万部くらい出ていましたからね。

凄い…。文芸の専門誌ってそんなに数が出るものじゃないですからね。

そうですね。子供たちの文化も今ほど多様じゃなかったから、学校から注文が来ていたし、今みたいにゲームやおもちゃが色々あるわけでもなかったから、親御さん達も自分の子供たちに与えるものとして選んでくれたということだと思うんです。

そういった事情もあって、この地域の方々は芸術や文芸に寛容なんですね。北沢さんがこの児童文学を書こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

私は自分の少年時代が漫画で育ったと思っています。どこもそうでしょうけど、当時は貧しかったんですね。飯田まで出るのにも近くの下市田駅から2,30分はかかるんです。当時、姉と一緒に母親に連れられて出掛けていくと、何が楽しみかと言えば、店先なんかに並んでいる漫画の古本を買ってもらえることだったんですね。飯田には古本屋が沢山あったんです。小学生時代は姉と二人で飯田へ行って、漫画の古本を買って、帰りの電車賃がもったいないので、その分の古本も買って、風呂敷に包んでね。それで、帰り道がわからないから、姉と二人で線路を歩いて帰ったりしたんですよ(笑)

良いお話です!(笑)

当時、鉄腕アトムが『少年』という月刊誌に載っていたんですが、アトムが空を飛んで、腕時計型の通信機で話をして…という漫画の世界が今はどんどん実現しているじゃないですか。あれを読みながら、いつかこんな世の中が来るんだ、というワクワク感であったり、自分の置かれている貧しい生活の外にはこんな世界があるんだ、というのは漫画が教えてくれました。
それで、小学校に入ったら、今度は図書館に本がいっぱいありますよね。1年生の頃は教室の後ろに並んでいる学級文庫を端から端まで読んでいったんです。私と、あともう一人女の子で学級文庫を読み終わった子がいたんですが、そうしたら担任の先生が図書館へ連れていってくれて「自分の好きな本を1冊だけ借りておいで」って言ってくれたんです。でも選べないでしょ、1冊だけなんて。

それはそうですね(笑)

図書館なんて小学生の私には世界と同じくらい広かったですから、見て回っているうちに頭が混乱してきて、最後に選んだのが『ドイツの民話』という高学年向けの作品でね。理由はわからないけど、もう気が動転してたんでしょうね。それを借りてきた自分に本当にガッカリしてね。「なんで数ある中からこれを選んじゃったんだろう」って。
おまけに一緒に図書館へ行った女の子と読み終えたら、お互いに本を交換するって約束してしまったので、その子にもこの本を読ませなきゃいけないかと思うと申し訳なくて…(笑)
でも、図書館に本がいっぱいあったから、本が漫画に代わって世界を教えてくれて、もう色々と乱読しましたね。もちろん友達とも遊ぶんだけど、その友達とも図書館へ行って本を読んでましたね。
あと、小学校高学年の時に読んだ本で『いたずら教室』という作品があったんです。戦前のお話で子供たちが教室で、担任の先生に黒板消しを落とすいたずらを仕掛けたりするお話なんですが、その先生が戦争に反対するような、それこそ自由主義的な人で特高警察に連れられていく場面があるんですよ。その場面で先生が連れられていくのを教え子たちが警察を恐れて、陰に隠れて見送るというのを本当に泣きながら読んでいました。家で本を読んで泣くのが恥ずかしかったから、布団被って読んでましたね。あんなに感動したことはなかったと今でも思います。本っていいな、と思ったんですね。
でも、これは不思議な話でね。大人になってもう一度読みたいと思って、30代の終わり頃にもう一度復刻版で読んだんですね。後になってわかったんですが、この作品は短編集の中の一作で、その作者の方が生涯に一度だけ出した作品だったんですね。静岡県の方で教師をやっていらして、綴方教室という子供たちに作文を書かせる実践をされていた方だそうなんですが、それを読み返したら当時ほど面白くなかったんです。

やはり感覚やセンスが歳と共に変わっていくんですね。

その時に思ったのは、読書っていうのはやっぱり作品と読者が一緒に作っていく活動だと。だからどんなに名作であろうと読者にとって共感できる土壌がなかったら、それはつまらない本になるだろうし、その『いたずら教室』という本は当時の私と物凄くリンクしていたんだと思うんですね。だから、優れた作品があって、誰もがその作品に感動できるかっていうとそうでもないし、感動しなさい、とも言えませんよね。逆に、どんなに評価の低い本でも読者にとってぴったりと合うものならば、その読者にとっては人生を決するような本になるだろうと思ったんです。そして、中学の頃から物語を書き始めるんです。

もうその頃からですか?

そうですね。とても恥ずかしい話だけど、卒業文集に小説を書いてましたからね。そういう意味では変な子でしたね(笑)。

僕の周りには卒業文集に小説を書く子はいませんでしたね。書き始めるのが早いですよね。

それで、高校時代にはもっと色々な本を読んで、大学に行ってからは仲間と学内で同人誌を作って、そして教員になってから信州児童文学会に参加して、活動を始めていったわけです。

その頃から児童文学をメインで出されていたんですか。

当時出していた同人誌では児童文学だけでなく、小説や詩も掲載していました。メンバーも14,5人はいたから、やっぱりみんなで繋がりを持って表現したいと思っていたんでしょうね。ところが、当時は学生運動というものがあって、私は信州大学の教育学部でしたが、当時の卒業生はほとんど長野県内で就職していましたから、採用試験で落ちるなんてことはめったに無かったんだけど、学生運動をしていた学生は落ちたんですよ。そういう差別があったんですね。それはおかしいじゃないか、と当時雑誌を作っていた仲間と話題になって、「声明文を出そう」となったんです。大学の構内に「その人の思想によって就職の採用試験が左右されるのはおかしいじゃないか」と声明文を出したら、仲間がガタッと減って(笑)。やっぱり、それは躊躇しますよね。それで、残った6人はそっくりそのまま当時の学生運動に流れていきました。当時の仲間は今でも一緒に飲んだり、話したりしますが、自分の信条を曲げずに活動を続けていった仲間もいるし、私のように教員になってからすぐに運動を辞めて文学の道へ行った者もいるし、色々ですね。

皆さん、時代のうねりの只中にいたんですね。

そうですね。高校3年生のときに連合赤軍が立て籠もった「あさま山荘事件」がありましたから、私ももし選んだ道が違っていたら、そういう道を進んでいたかもしれないし。誰もがそうでしたけどね。あの当時、学生運動に関わらなかった人達もいましたけど、政治家とか、後に行政の長になる人は、だいたいみんな学生運動に関わっていましたね。それで、軌道修正しながら今の人生になっていったんだろうと思います。危ない綱渡りの時代でしたね。

世の中に対して自覚的になると、そうした運動のことも考えてしまうんですよね。

そういうことですね。私達の時代の方が政治的な色って濃かったですね。今は、政治に関わるとかそういう活動をしていると「何か危ないことやってるんじゃないか」って言われそうですけどね。でも、当時は突き詰めればその道を歩むという感じでしたね。

僕も当時の雰囲気は映画などで知るだけですね。そうやって、色々と時代が変わっていっているタイミングだったんですね。

でも、それを通して友達を得たし、体験もそうだけど、立て看板の絵を描いたり、私は教育学部の執行委員長をやっていたものだから、総会に出て欲しいとか、ハンドマイクで呼びかけることも多くありました。そういう学生自治会の活動をやったんだけど、一般の学生たちはそんなに簡単に振り向いてくれないから、自分が一生懸命やるんだけれども、それに応えてもらうのはとても大変で粘り強くやらないといけないということは学びましたね。それは教員をやっていく上で一番の財産になりました。大学で学んだことって言っても、授業なんてほとんど出なかったから(笑)。でも、なんとか人に振り向いてほしい、一緒に活動してほしい、というやり方は運動を通して学んだ気がしますね。教員になっても、振り向いてくれない子供たちが沢山いましたから。そういう子たちにみんなと一緒にやろうよって誘う時や、子供たちが自分の思った方向に育っていってくれない時にも粘り強くやらなきゃいけないですからね。結果としては報われない学生運動でしたけど、そういった点では本当に役に立っていました。

経験が後々に生きてきた、ということですね。教員になられて、それから文芸の方も同時進行で活動されて。

教員は教員でお金を貰っているからしっかりやらなきゃいけない大事な仕事なんだけど、教員の仕事で失敗をしても、そんなに落ち込む必要は無いんです。うまくいかないことがいっぱいあるから。でも童話は書いても、評価されないと本当に落ち込むんです。やっぱり作品っていうのは自分そのものだから。だから、作品が受け入れてもらえないってことは、自分が受け入れてもらえないのと同じように、すごい落ち込むことがあるから、教員としての挫折より作家としての挫折の方が大きいですよ。ただ、そのおかげで頑張れたという面もありますね。

どっちの柱も大切するということですね。現実的なというか、生活していく上で必要な柱と、あとやっぱり自分っていうことちょっとアイデンティティとなる柱の部分と。

そうですね。

この前、「飯田・下伊那の童話作家たち」という題で講演会をやらせてもらったんだけど、終わった後に40代くらいの女性が話しかけてきて、「私はどうしても先生に感謝をしたかったんです」と言ってくれたんですが、お顔からも名前を思い出せない。お話を聞いたら、当時私は数学の担当だったんですが、私が教えていた生徒だったんですね。それで、彼女が「先生が、私は童話を書いていると話をしてくれた」と言ってくれたんですが、それが先ほど話をしていた『竜馬にであった少年』を出した頃のことだったんで、本を出せたことが嬉しくてそんな話をしたんでしょうね。その子は当時、自分の進路について悩んでいて、家族からは色々言われるけど、自分のやりたいこともあったんだそうです。「そんな時に先生が教員をやりながら、童話を書いている話を聞いて、すごく気持ちが楽になった」と、「人生って1つだけ選択しなくてもいいんだ」と本当に救われたと言ってくれてね。
私にそういう意図ではなかったんですが、そういうふうに聞いてくれて、思い出として持ってくれている子もいるんだなと思いましたね。

何がきっかけになるかわかりませんね。

ホントですよ。よければ書斎があるんですけどご覧になりますか。

ぜひ見せていただきたいです。

(書斎を見せていただきました。普段執筆されているデスクには大きなモニター。「もう老眼で文字が小さいと不便なんです」とのこと。本棚も見せていただきましたが、あくまでご自身の著書や資料となる本を置いておくためで、普通の本棚は別の場所に置いているそうです。執筆する上で重要な項目をまとめた手書き資料など、貴重なものをいくつも見せていただきました)

では、小沢あきこさんについても伺っていきます。活動30周年の記念曲の作詞をされたそうですが、これは小沢さんからのご依頼だったのでしょうか。小沢さんも飯田市産業親善大使ですよね。(※1)

そうです。小沢さんは飯田の千代出身の方なんですよ。出来事としては、飯田・下伊那地域の音楽の先生たちが例年、飯田文化会館で自分たちの専門分野の発表会をやるんですが、オーケストラ、合唱団といった部門の中に創作部門というのがあります。創作というのは曲を作る部門で、その中で「オペレッタ」というコンパクトなミュージカルのようなものをやるんですよ。その脚本を先生方に頼まれて私が書いているんですね。
それで5年前に郷土出身の小沢あきこさんを応援するために『マイ・ソング 小沢あきこ物語』をやろうということになりまして、その時に初めて小沢さんに連絡をとって、事務所のOKをとり、本人やご家族、お友達、当時の先生に取材をして、1時間ほどのオペレッタを作りました。それをご本人も観に来てくれて。
それから縁があって、コンサートのお便りがあると見に行ったりしていたんですが、去年の10月にご本人と事務所のマネージャーが「今年は30周年で、記念の新曲を出したいんだけれども、作詞をしませんか」とお訪ねになりました。
実は、私手術をしたんですよ。胆管がんという場所的にあんまり良くない癌だったのですが、癌を取るときに一緒に膵臓半分とか取らなきゃいけなくて。予後も大変なんだけれども、そんな手術をしなきゃいけないこともわかって、一体どうなるかわからない。そうした大きな手術だから、自分がやりたいことをやっておこうと思いまして、「どうですか」と言われたときに「やります」と。それで書いたのが『風恋し』という曲なんですよ。なので、これは病院で入院中にベッドで書きました。
私、演歌が好きなんですよ。そんなに好きだって言ってきたことはないけども、フォークソングだとかそういう世代なもので。でも基本的には演歌が好きだから、演歌の歌詞が書けたらいいなと以前から思っていたので一生懸命書きました。
2023年の4月26日に発売されて、オリコンの演歌部門のヒットチャートで5位までいきましたね。でも演歌ってすごい数の新曲が出ていて、しかも、今はことごとく売れないんです…(苦笑)。でも、演歌のファンは多くてBSなんかでは演歌の番組が多いですからね。これを作曲した合田道人さんという方は小沢さんの音楽事務所の社長なんだけど、歌手協会の理事長やっている関係で今BSでほとんど毎日のように出てますね。
小沢あきこさんは世界へ展開できるように芸者スタイルで髪を結って歌うスタイルをとりました。10月にロサンゼルス公演をやったんですけども、日系の方がほとんどでやっぱり日本の古くからの歌っていいんですよね。余談なんですが、小沢あきこさんって優等生みたいな歌を歌う人なんですね。人柄も演歌の毒気がない感じで。

小沢さんのブログも真面目そうな感じが出てますよね(※2)

すごいな。そこまで下調べしてるんだ(笑)。だから、演歌よりももっとポピュラーな歌の方が合うのかなと思っていたんだけど、やっぱり演歌をずっと歌ってきた人だから。ただ、イメージするような港、涙、男と女、酒みたいな内容だと思いを込めて歌えないんじゃないかなと思って、故郷を舞台にして、母と父と友と、という望郷の歌に仕上げたんですね。本当に一生懸命歌ってくれていますね。

このテーマも、ある意味では演歌のフォーマットですよね。家族や故郷への想いだったり。

その方面の方が想いが込められるんじゃないかなと思ってね。やっぱり、歌ってどんなに上手に歌っても届かないものは届かないし、多少音が外れていても、感動してくれる歌もあるし、やっぱり、どれだけ思いが込められるかというのが演歌では大事かなと思って。

それがこうして形になったということですね。

今、自分の講演会では、どこでもこの曲の宣伝を入れています。演歌系童話作家です(笑)

昔の歌謡曲なんかも作曲と作詞のプロが組んで、その歌手の合ったものを作っているのが、実にプロの仕事だなと思いますよね。

今は詩が文学としての一般性をほとんど持っていないでしょ。詩集なんてほとんど出せなくて、自費出版で出す他ないような時代なんだけど、一方で歌謡曲の歌詞は生き残っているじゃないですか。だから、詩は歌謡曲の詞として、いろんな要素も加えながら生き残ってきているという気がします。我々の時代で言うと、小椋佳とか、フォークソングも良い歌詞があったし、今の時代だって若い人達にそうして生き残ってきた詩のエッセンスは受け継がれているんですよね。

詩の世界で言うと、谷川俊太郎さんは詩だけで食えている感じの方ですよね。

あの方ももうお歳だから、今は詩集が出てこないこともあるけど、『生きる』とか合唱曲の歌詞になっていて、歌われていますよね。息子さん(谷川賢作:作曲家・ピアニスト)もミュージシャンですね。一緒に朗読会をやった時に飯田まで来てくれたこともあります。

ポエトリーリーディングのような。

そうです。でも作詞をやって思ったのは、文学の詩と歌謡曲の歌詞は違うな、ということですね。今回は歌詞を先に書いて、合田さんが後から曲を付けてくれたんだけど、合田さんとのやり取りの中で意味が取りにくい言葉や言い回しは演歌では避けたい、と。「そうだな」と思いましたね。あとは発声の問題で声が発しにくい言葉を避けるということで、書き換えた部分も多かったです。3番の歌詞なんて、もうぐちゃぐちゃになってしまって(笑)。

なるほど…!歌詞でいうと、曲に乗る言葉の数もありますよね。

演歌は基本的に七五調なんですよ。この曲もそういう歌詞になっています。そういう面じゃ今の若い人たちの曲のように音譜に歌詞を刻んでいくような作り方はしないんですよね。演歌は基本のメロディもほぼ出尽くしていますし。演歌って何フレーズか聞けば、その後の曲の流れってなんとなくわかるじゃないですか。

演歌ってサビに向けて、タメを作って、また盛り上がって、という流れはありますよね。

そうなんです。でも楽しい経験をしたな、と思いますね。

ここからはプロフィール的な部分を聞いてまいります。肩書きは?

肩書きはただの「物書き」ですね。名刺にある日本児童文学者協会会員、信州児童文学会会員というのは紹介しやすい肩書きなんです。

「物書き」っていいですね。では、得意なことを聞いていきます。

得意なことはやっぱり物を書くことでしょうね。他に思いつかない(笑)

反対に苦手なことはなんでしょう。

強くきっぱりとすることですね。作家、文学者って「迷う」ことだと思うんですよ。人が生きていく中で迷いますよね。作家ってこれは右、これは左ときっぱり分けていける種類の人間ではないんですよね。人生の選択にも良し悪しがありますが、その中で人間が迷って、喜んで、苦しんで、それが人間なんだというのを作品を通して伝えるというのが作家だと思うんですよね。
例えば不登校の問題があるけれども「これが解決の道だ」と断言はできないし、ちょうどC・W・ニコルさんに関係するお話で言えば、今、クマの被害が大きいじゃないですか。それも捕殺すべきだ、とか共存するべきだ、とか色んな考えがあるんだけど、ニコルさんの伝記を書きながら、「こうするべきだ」とはっきり言えないと思いましたね。クマの被害について聞けば、大変だろうなと思うし、共存していきたいというお話を聞くと、それもそうだと思うし、だから文学を志すというのはきっぱりと言い切るのではなくて、「迷う」という人間らしさを伝えていくことで、「人間っていいな」というところへ繋げていけたらと思うんですよね。

ありがとうございます。高森町でおススメしたいものはなんでしょうか。

おススメしたいものは「森」ですね。ニコルさんも「アファンの森」を拓いたでしょ。私は黒姫童話館に行っていたんですが、そこは森に囲まれたところにぽっかりと草原が開けているんですが、周りの森は「癒しの森」という名が付いているんです。メディカルトレーナーと言われてる人たちが、ガイド資格を持っていて、都会から来た人たちを案内して森の中を歩くんですよ。ここに来る人達は企業研修とか健康保険組合との兼ね合いで来られる方が多いんですよね。

企業の慰安旅行のような。

そうです。ヨーロッパでは医者が「森の中を歩く」って処方箋を書くんですよ。森を歩いて、空気を吸って、土を踏んで、その中で自分の健康を取り戻していくというものです。

一種のセラピーですね。

そうそう。そうしたことをこの伊那谷では出来るだろうなと思っていて。今度リニアが通るでしょう。その時に売り物や観光って限られていますよね。しっかりした建物を建てるとなればまた大変な予算が必要だし。でも、森はいっぱいあるのでね。
だから、各市町村が連携して、それぞれの森を人が来られるように整備して、同時にその森を守り育てて案内するガイドを養成して、そして今ある宿泊施設とも契約をして、もう一つは医療と健康保険組合と提携をして、お客さんを呼び込んで、1週間とかそのぐらいの期間宿泊して、森の中を歩いて、健康を取り戻してもらう、と。1カ所だけだとリピートが少なくなるので、今回は松川だったけど、次は高森に行こうか、となればいいかなと思いますね。そうすると、森を整備する人、ガイドの人、それから宿泊施設や土産店といろんな産業が活性化されていきますね。黒姫童話館に居た時、そういう客層が相当数いるな、と思ってね。将来性もあるし、環境に良いでしょ。森を整備して人が入っていけば、クマもそこには入って来ないし、自分たちのすみかへ戻っていくだろうし、棲み分けが出来てとてもいいんじゃないかなと思ってね。高森は広葉樹の森がまだ沢山あるんですよ。そうした場所を整備すれば、これからの貴重な財産になるんじゃないかなと。あとは各市町村が協力してやっていけるかどうか、ですね。そうやっていけば、日本中から、世界から人が来てくれる場所になるんじゃないかなと。

人が癒しを求めてくるような。

医師から処方箋が出れば保険で来ることも出来るし。心の病を含めたいろんな病に対して医療費を使うより安上がりだと思うし、皆が健康になれると思うんですよ。
ニコルさんが「アファンの森」を作ったのもそうした思いが根底にあるわけで、それに多くの人々が共感をしてくれているのでね。「アファンの森」は企業も協賛して多くの資金を出してくれているんです。

そうした場所が多くできてくればとこちらも思っております。最後になりますが、町の皆さんへお伝えしたいことがあればお願いします。

そうですね、地域の良さを感じながら、共同体として共に暮らしていく、そういうことを大事にしましょう、ということですね。やっぱり皆忙しいし、それぞれの持っている問題もあるし、煩わしいことはしたくないというのもよくわかります。ですが、やっぱり生きていく上でお互いに助け合ったり、楽しんだりする部分がないとやっていけないですからね。それを今の時代は死守するくらいの気持ちでないと守れないんですよね。一緒に生きて、一緒に楽しんで生活していくということがこの地域は出来ると思いますので、それが出来ればいいなと。
私ももう少し地域に貢献できればいいなと、朝の登校見守りはやっているんですよ。朝の登校の小学校までの行き帰りを一緒に歩くのと、それから中学生の放課後学習で数学を教えています。後輩たちのために一緒に受験勉強をしています(笑)。本当に一生懸命に勉強してくれる子たちなので、少しでも力になれればいいなと思っています。

自分のできる範囲でそれぞれの人がお互い地域のためにできることをし合いながら生きていって、楽しみとかを感じながらやっていければいいなと。それが自分にもゆとりを与えるし、充実感というか、「生きていてよかったな」という気持ちにもなれるから、そういうことを大事にしていきましょう、ということですね。

最後にすごく良いメッセージでまとめていただきました。北沢さん、ありがとうございました!

【後記】
文学についてのお話や歌詞と文学としての詩との関係性から、学生運動に参加された青春時代といった内容まで、とにかく興味のあるお話ばかり出てくるので、こちらも延々とお話を聞いていたいと思ってしまいました。非常に文学者らしい、というと語弊があるかもしれませんが、言葉の端々に知性が感じられ、世の中をよく観察していらっしゃると感じ、「高森の賢人、此処に在り」と言いたくなりました。
(了)

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写真:Noémie
文:Hattori
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※本記事は2024年1月29日時点の内容を掲載しております