10年前より松源寺の住職となった市瀬さんにお寺の成り立ちから、『おんな城主直虎』が放映された際の反響、町の印象などを伺いました。訥々(とつとつ)と、穏やかな表情で答えて下さる姿が印象的で、こちらもまるでありがたい説法を聞いているような気分にさせられました。今回の記事はおまけ付きです。どうぞ最後までお楽しみください。
市瀬良樹
ICHINOSE RYOJU
松源寺住職
お寺の庭の草刈り
優柔不断なところ
「おんな城主直虎」が放映された際、話題になった松岡家ゆかりのお寺・松源寺の現住職。大変謙虚なお人柄、ゆったりとした話し方でお寺の和尚さんらしさに溢れた方です。お寺を訪れる子供たちとのふれあいが息抜きの時間。
高森町の水と空気のおいしさ、人の良さ
松源寺は戦国時代の創建ということで。
そうですね。だいたい1513年(永正10)ごろと聞いていますので、だいたい510年経ちましたね。
すごい歴史ですね…。
よくご存知かと思いますが、松源寺が建てられたのは、今建っている場所ではなくて、牛牧の「野の花亭」さんの辺りに元々は建てられていたそうです。
それで、井伊家の亀乃丞が松源寺に逃げてきたエピソードがありますね。亀乃丞は浜松から逃げてきたんですが、その元々の松源寺へ逃げてきたんです。まだ、その頃この辺りは松岡城でしたから。その後、元々の松源寺は燃やされてしまって、松岡城も無くなってしまい、江戸時代になってこの場所に移ってきたわけです。
この辺りに攻めてきたのは織田の軍勢でしたっけ?
織田・徳川(当時は松平)の連合軍が武田勝頼を攻めてきた時に元の松源寺が燃やされてしまったんです。松源寺だけじゃなく、この辺り一帯が燃やされてしまったと聞いています。その時に松岡城は焼かれずに済んだのです。その後、松源寺を再興しようとしているうちに松岡城が潰されて(松岡家が改易されて)しまったんですね。だから、その後3~40年はお寺も建てられなかったんですね。
そういえば、天気が怪しくなってきましたね。雨が降らなきゃいいんですけど。
昨日(9/21)は凄い大雨でした…。
昨日は大雨で凄かったですね。でも、お庭があるので、そういう意味では助かりました(笑)。この夏は雨が全然降りませんでしたからね。この辺では雨による大きな被害はなかったようですね。ちょっと前に上田の方で土砂崩れがありましたから、心配していたんですけど。
(お話を戻して)そういえば、松岡城の歴史を見てみると、関係してくるのが戦国のビッグネームばかりですね。
そうは言っても、松岡家はこの辺りの「一豪族」に過ぎなかったんですよ。やっぱり大名と呼ばれる武将には敵わなくて、最後には付く人を間違えてしまった、ということに尽きると思いますね。
織田・徳川に付いていたけれども。
最後の最後で豊臣秀吉側に自軍を出してしまったんです。結局、それが密告されてしまって、それが咎められてしまった。
普通だったら殺されてしまうところだったんですけど、家康さんのところには大きくなった井伊直政がいたんですね。(直政は亀乃丞の息子だったので)直政からすれば、井伊家を救ってくれた松岡家ということになります。何とかこの人たちを助けてやってもらえないかっていうことで、家康さんにお願いをして、改易で済んだと聞いています。どこまで本当なのかわかりませんけどね。「おんな城主直虎」が放映されていた頃は「私、松岡家の子孫です」だったり、「子孫かもしれません」という方は何人か来ましたね(笑)
そうでしたか(笑)
でも、豊丘とかに子孫の方がいらっしゃるみたいですよ。この辺にも松岡さんって苗字の方がいらっしゃいますし、みんながみんな子孫じゃないですからね。ただ、今となってはそこまでわからないですね。
その後、この場所に立派なお寺が建ったわけですが…
立派と言っていただいていますけど、こちらに建てられたばかりの頃は小さな庵(いおり)だったと聞いています。その後、江戸時代の中頃、1734年と聞いていますけれども、松源寺の初代住職さん(御開山様と呼ぶそうです)の200回忌が行われたんですね。その頃に本堂を建てたり、大きく建て直したと聞いています。
ただ、この本堂と庫裏(くり)が明治30年に火事に遭って、建て直されています。今、いらっしゃる場所(インタビューしているお部屋)はさらに後に建てられたもので、豊丘の方から、家を曳いてきたんです。
では、何か丸太に乗せて運ぶような…
いえいえ。当時の民家の柱を1本1本分解して持ってきたんです。そんな今のウルトラ重機はないですからね(笑)だから比較的新しい建物ではあるんですね。明治の火事ではお寺から少し離れていた山門は燃えなかったので、ここは江戸時代中期からのものなんですけれども、他は比較的新しい建物なんですよ。
不勉強ですみません(笑)そういえば、下市田学校の門だったか、ここへ移築されたものがありますよね。
牛牧学校ですね、今の牛牧伝承館にあったものですね。今の南小学校が出来た時に牛牧学校が廃校になったんですが、せっかくの建物が勿体ないということで、門が移築されてきたと聞いています。正確な時期はわからないんですけれども、廃校になった昭和9年から10年も経たない頃の話かと思います。私からすると、3代前の住職の頃に移してきたのではないかと思います。時期的にもちょうど合うのでね。牛牧学校から貰ってきたか、買ったか、だと思います。
なるほど。
色々なところから貰ったり、買ったりして今の松源寺は成り立っているんです。
何だかんだ100年以上は経っていますよね。
そうですね、130年ぐらいになりますね。飯田の下伊那は、他にも立派なお寺さんが沢山ありますからね。もう何百年と建っている本堂もありますよ。
(お寺の方にお茶を出していただきました)
こちらのお寺を継ぐのはいつ頃から考えられていたんでしょうか。
私が高森に引っ越してきたのがほぼ10年前なんですけれど、私は浜松出身でこちらの人間ではないんですね。
お寺の家に生まれたんですが、私はお寺の次男坊だったので実家は兄が継いだんです。私は大学まで出させてもらったので、その後どうするかってことで、いわゆる「修行道場」に入って、それから7,8年経ってからですね。
それまで本当に申し訳ないんですけど、高森町どころか飯田市も知らなかった。「そこはどこなの?」という感じで、長野県は知っていましたけどね(笑)
我々の宗派は臨済宗妙心寺派といいますけども、その同じ妙心寺派の松源寺が跡継ぎを探しているということで、「一度、行ってみないか」という話になったわけです。それが30歳の時でして、私が今40歳なので、ちょうど10年前の話ですね。
それで、この松源寺に来まして、色々とお話を伺いまして、こちらに入ることになったんです。3月にこちらへ来て、8月にはお寺に入ることになったので、早い話ではありましたね。
臨済宗ではどういった修行を行うのでしょうか。
まぁ修行というか、一般的な流れとして、大学を出たら臨済宗妙心寺派の修行専門道場というのに行きます。そこで短くても3年ほどは修行しますね。私は出来が悪かったもので、何だかんだ8年くらい修行したんですけどね(苦笑)
そこで、お仕事というか勉強をさせてもらって、修行させてもらって、その後、お寺に入ります。最初は副住職という立場で、やがて住職になるというのが一般的です。私は副住職をやらずにいきなり住職になったんですけどね。
先代住職さんから伝えられたことはありますか。
私が松源寺に入った時、先代はもう末期がんだったんですね。そういう事情もあって松源寺は跡継ぎを探していたんです。だから、正直引継ぎどころじゃなかったですね。私が初めてこちらに来たのが平成25年の3月だったんですが、それから2ヶ月後に先代は亡くなってしまったんです。私は8月まで修行道場にいなければならなかったので、どうしても戻れなかったんですね。
その後、ある意味タイミングが良かったといいますか、先代との最後のお別れ、お葬式には出させてもらえたんですね。だから、引継ぎというのはほとんど無かったんですね。ですから、先代住職のお母さんがまだお元気なので、色々聞きながらやっていましたね。こちらはどこが北か南か、どこが下市田なのかわからずやっていましたからね。この苗字は何て読むの?とか、そんなことを色々と教えてもらいながらですね。あとは、周りの和尚さんに聞いていましたね。この辺り、諸先輩方がいらっしゃいますからね。
それは同じ宗派の方が多いですか
そうですね、やはり同じ宗派の方からは教わることが多いです。それでも、この高森町や飯田市には仏教会がありますから、宗派関係無く繋がっていますよ。
(同行カメラマン)大門さん、元気ですか?
この前会いましたけど、いやもう…あの人は元気過ぎる(笑)
同じ臨済宗の和尚さんで、もう65、6歳になるのかな。ノエミさん(同行カメラマン)は私よりも大門さんと先に知り合いだったんですよね。
(同行カメラマン)大門さん、旅行でペルーに行くって言っていたよ。前回はインドに行ったって言っていたかな。
インド行きたいな~(笑)
学生時代に1回行ったんですけどね、学生だから色々とわかっていなくてね。今だから行きたい(笑)
(同行カメラマン)何しに行きたいですか?
もちろん、仏跡巡りはしたいし、お釈迦様が悟りを開いた場所、亡くなった場所、修行した場所とそれぞれに行きたいですね。1回行ったけど、ほとんど忘れているので。あとは、当時のインドと今のインドは全然違うと思いますし。今のインドは凄いじゃないですか。
ただ、当時の私は身体が丈夫でしたね。最後の最後でお腹を壊しましたけど(笑)
水には凄く気を付けていたし、水で洗ったサラダも食べてなかったし、生で食べるものは全部避けて、火を通したものだけ食べていたんですよ。もちろん、飲み物は栓の開いていないボトルしか飲まなかったし、日本からも非常食を持って行きまして、どうしてもという時はそれで済ませたりしてね。10日間くらい行きましたね。
その間、一度も体調を崩さなかったのは凄いですね。
同級生はバタバタ倒れていましたけどね。何しろ8月でしたから。
それはもう…お察しします(笑)
でも今の日本よりは暑くなかった気がします。20年前のインドよりも今の日本の夏の方が暑いように感じます。
僕も学生時代に哲学科だったもので、インド哲学を少し学びましたけど、難しかったのを記憶しています。
それで言えば、昔、京都でお世話になっていたお寺さんに京都大学で教鞭を執られていた西田幾多郎先生のお墓がありましたね。
それこそ、私がお寺で小僧をしていた時にね、よく学生さんが「お墓参りをさせてほしい」って来たもんです。誰でも入れちゃうと大変なので、先生の命日に限ってお墓参りをしてもらっていたんですよ。京都に「哲学の道」ってありますね。今では観光名所になっていますけど、あれは大切な場所なんですよね。
なるほど、哲学の道ってそれが由来なんですね。僕も昔、西田幾多郎の『善の研究』を大学の講義で読みましたよ。難しくてなかなか理解出来なかったです(笑)
あれは難しいですよね(笑)
お寺の和尚さんとして、普段はどういったこと、お仕事をされているんでしょうか。
そうですね、檀家さんが来られればいろんなお話がありますから、そういう対応もしますし、法事があればお寺でもやりますし、お家に呼ばれればそこでお参りしますし、他のお寺さんと一緒です。
例えば、瑠璃寺さんは兼職されていたりしますけど、私はそういうものもないので、一日のうち何をしている時間が長いかといえば、庭掃除をしている時間ですね。草取り、草刈り、庭掃除している時間が長いですね、私の場合は(笑)
石垣なんかも自分で掃除していますね。
そういえば、大河ドラマ『おんな城主直虎』の影響はどうでしたか?やはり凄かったですか?
コロナ前だったからかと思いますが、やはり凄かったですねぇ。今思うとこちらは好き勝手にやらせてもらっていましたね。本当に大変だったのは、町役場産業課の方達でね。本当に大変だったと思いますよ。
(同行カメラマン)中塚さん(当時の産業課長)もあの時期は大変だったって言っていました(笑)
そうだと思いますよ。役場の方々が、日取りや人数や時間といった観光バスの取りまとめを全部してくださったんです。1200~1300台くらいのバスが来られたんですけど、そういうのを全部まとめてくださった。
来られる方も東京だ、名古屋だ、三重だ、ってね。ガイドの方もこれだけいるから、どのガイドさんにお願いするか、とかそういったことも全部です。本当に頭が上がりませんよ。役場の方ももうやりたくないでしょうね(笑)
普段の仕事に丸々乗ってくる感じだと思いますから。
そうでしょうね。普段のお仕事もお忙しいですからね。
そのおかげもあって、お寺としては本当によくしていただきました。
先ほども言いましたが、元々の松源寺は燃えてしまったので、亀乃丞さんや井伊直親さん(亀乃丞・元服後の名)のものといった古いものはあまり残っていないですけど、城やお寺をガイドしていただいて、ご納得いただいて帰ってもらえたと思っております(笑)
少しでも歴史を感じられればいいですよね。
ここは松岡城址がセットで見られるのでね。桜の時期も凄かったですよ。一番観光客が来られたんじゃないかな。元々、桜の時期は色んな人に来ていただいていましたけど、『おんな城主直虎』があって「ここに桜もある!」と見に来ていただけるようになりましたね。
HPを拝見しましたけど、『滴水会』(松源寺で行われているお見合いイベント)が面白いと思ったんですよ。
私自身もどうなるかわからなかった身ですが、こうしたご縁があって、お寺に入らせてもらい、結婚まで出来た。だから、何か出来ないかなと5年ぐらい前から始めましたね。
始めたのはいいんですけど、1年くらいでコロナが流行ってしまってね。そこから3年弱なにもできなくて、あまり実績もないんですけど、本業のかたわら、「お寺で婚活しませんか」と、ちょこちょことやらせてもらっています。
実際に申し込みなどはありましたか?
なんやかんやで申し込みはありますね。ただ、私自身がそうした才能があまりないと思っているんですよ。やりたいのと出来るのは違いますからね。本当は上手いこと広告とか打てればいいんでしょうけど、それでも「やりますよ」といえば、出たいと言ってくれる方がいらっしゃいますから、ありがたいですよね。
(同行カメラマン)やりながら進歩していく感じですね。
本当にそうですよ。今までお寺しか居たことないし、大学を出て、修行して住職になって、そんなことは1回もやったことないんですから。とりあえずやってみよう、という気持ちですね。
そういう心持ちが大事ですよね。
心というか、恩返しの気持ちです。高森町に拾ってもらったので、できることをやりましょうという気持ちです。
ありがとうございます。プロフィール的なことを伺っていきますね。あの…そもそものお話で恐縮なんですが、お名前の呼び方から聞いてもいいでしょうか。
「いちのせ」と読むんです。この辺の人は読めて当たり前の苗字なんですよ。
失礼いたしました。
この辺ではよくある苗字だそうですよ。とは言え、私も婿でこちらに入ったものですから、昔の友達には苗字の読み方をよく聞かれます。「いちせ」って読むの?とかね。
なるほど、ありがとうございます。プロフィール的な部分、まずは得意なことを聞いていきます。HP上では「必殺技」と出るんですけど(笑)
「必殺技」って何だよって思いますよね(笑)そう考えると、草刈りとかになりますねぇ。
庭仕事でもいいんじゃないですか。
そんな高尚なものじゃないですよ~。
逆に、苦手なことは?
苦手なことねぇ。いっぱいありますよ。ひとつ挙げると、物事を決める時に優柔不断になることですかね。性格的なものだと思いますけどね。
先ほどの「滴水会」はね、「やっちゃえ」って気持ちでやりますけど、やっぱり「あれで大丈夫かな」とか心配や不安になることは、まだまだありますよ。
誰しも少なからずありますよね。
もうちょっとお寺の住職さんらしい弱点の方がいいですか?
いえいえ、逆に人間味が出て良いと思います(笑)「住職さんも迷いがあるんだ」って励みになりそうです。
迷いっぱなしです(笑)
何かおススメしたいものや松源寺としてPRしたいことはありますか?
私自身、ここで10年学ばせていただいて、結婚して子どもも授かって、子どもの関係で保育園や小学校にお世話になっていますけれども、これまでの人生だったら関わることがなかった人といっぱい出会うことができました。すごい人達が沢山集まっているな、と思いますね。
恥ずかしながら、「和尚さんがすごいからそういう人が集まるんだよ」って言っていただくこともありますけども、ここに来てから、本当に良いご縁に公私ともに恵まれましたね。
だから、それだけ素晴らしい人が沢山いるんですね。人が良いというのは根幹に関わることだと思うんですよね。人の良さとか、町の良さとか全部知っているわけではないんですけど、最初は物珍しさで良くしてくれるのかな、と思ったこともありました。でも、10年経っても変わらずに良くしてくださる方が多いですね。先ほどお二人にお出ししたお菓子なんかも頂き物ですし、多分嫌な人だったらあげようと思わないでしょう。そうやってお気遣いをいただけるのが本当にありがたいですよね。なんやかんやでお世話になっております。
本当にそうですよね。少しパーソナルな部分も聞いていきますね。住職の御趣味なんて聞いていいですか?
(しばらく悩んで)趣味ねぇ(笑)
趣味は歳と共に無くなっていきましたねぇ。
(同行カメラマン)さっき草刈りをよくするって言っていたから、ガーデニングとかって言うのはどうですか?
それは仕事だからね(笑)
勿論、楽しみながらやっているので、趣味=仕事と言えなくはないんだけど。趣味ってなんだっけなぁ。
好きなものでもいいですし、こんなもの集めていました、とかそういう感じで。
そういえば、今隣で子供たち向けの塾をやっていましてね。近所の方が先生をやってくれているんですけど、よければ取材してあげてください(笑)
その方も近所の方で、私と同じ頃に外から引っ越してこられたんですよ。外から来た者同士ということでね、仲良くさせてもらっていますよ。
まさに寺子屋という感じで。
私は何も教えていないですよ。子どもたちに要らんことばかり教えてしまいますから(笑)
その子どもたちは小学生なんですけど、休憩時間に庭で一緒に遊んだりするんですね。鬼ごっこをしたり、駆けっこをしたり、小学校で野球をやっている男の子とキャッチボールをしたり。そういう仕事を抜きにしてただただ遊んでいる時間は楽しいかな、と思いますね。趣味というか、息抜きなんですけどね。こちらに来ている子どもたちとのふれあいが趣味とでもしておきましょう(笑)
ありがとうございます。松源寺のでもいいですし、ご自身のでもいいので、今後こうなっていきたいという目標はありますか?
先ほどもチラッと言いましたけど、やっぱり私は高森町に拾ってもらった人間なので恩返しですよね。それで何ができるのかは知れていますけれど、今は色んな方が活動されているので、ここでもヨガ教室やお花の教室をしていただいたりしています。
それもいいんですけど、他のお寺さんで多くやっているのだと「こども食堂」かな。あとは、「お寺おやつクラブ」といって、御法事でお寺にお供えされたお菓子がお寺で食べ切れない時に、ひとり親世帯の子どもさんをはじめとした、なかなかお菓子まで手が届かない子どもたちにお菓子を送る活動があるんですね。これはお寺さんが全国規模でやっている活動なんですけれど、そういった活動に協力できたらいいなと思いますね。
最後に町の皆さんにお伝えしたいことやメッセージがあればお願いいたします。
私みたいな者が何か言えるわけではないんですけど(笑)
何かありがたいお言葉でも…
この町の方々はもう十分素晴らしいので、ありがたい言葉なんて…(笑)
ご奉仕させてもらっても素晴らしい方達ばかりですよ。
では、この町に住んでいて、「住み良いな」と思うところはどんなところでしょう。
人の良さは勿論ですし、単純に水と空気が美味しい、これに尽きます。逆に都会に行くと辛くなっちゃいますね。今度リニアが通るというので、これがどう変わっていくのかわかりませんが、交通の便は良くなりますね。
長野県はガソリン代が高いとか、山奥だとか言われますけど、住んでいてそれほど不便も感じませんね。水と空気と食べ物と、それと人が良いのでね、いい場所だと思いますね。
僕も東京から来る度に思いますね。
私たちはそれを当たり前に享受していますけどね、それがいかに大変な思いで先人たちに守られてきたか、ってことですよね。水でも空気でも、人でも一回ダメになると、すぐにダメになってしまうものだと思うんです。今の人達の苦労も勿論ありますけれど、先人たちが苦労して守ってきたものがあるから、こうした環境があるんだと思いますね。
それを守っていくことが大事ですよね。最後に深い、良いお話をいただきました。
【こぼれ話】
その後、市瀬さんに松岡城址を案内していただきました。
松源寺から松岡城址へ歩きながら、市瀬さんに松岡城址の説明を聞かせていただきました。
現存している土塁は、城マニアから見ると保存状態が大変良いとのことです。土塁は苔むしていますが、形はしっかりと残っているのがその証拠です。
現在、松岡城址は土の道が整備されて歩きやすくなっていますが、数十年前まで樹木が生い茂っていたそうで、地元の有志の方々が木を伐って整備していったとのことです。そんな道を歩き、松岡城址の石碑が建つ場所に立つと、街を一望できるパノラマが広がります。
遠くに山、町の中を天竜川が流れており、リニアモーターカーの駅候補地が見えます。
変わりゆく街並みを一目で眺められる絶景スポットです。
いい景色ですね!
この天竜川が私が住んでいた浜松まで続いているんですよね。ここに立つと、故郷を思うことができるんですよ。
ホントにいい景色です。今の高森町と故郷を同時に想える場所ですね。
そうかもしれないですね。来ていただく方には松源寺と松岡城址はセットで見ていただきたいと思いますね。
ご案内までしていただき、ありがとうございました!僕もまた訪れたいと思います。
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写真:Noémie
文:Hattori
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※本記事は2023年11月11日時点の内容を掲載しております