「記憶力は衰えてきたけど、まだまだやりたいことがある」とおっしゃるパワフルな吉田さん。下市田学校という幾多の取り壊しの危機を乗り越えてきた地域のシンボルへの熱い想いがビシビシと伝わってきました。
そして、数多くの企画をこの下市田学校で実施してきたという吉田さん。企画のために奔走してきた過去のお話は「これは一人の人間の話だろうか」と、そのバイタリティーに驚かされました。
「もっと下市田学校を知って欲しい」という想いで、きっと今日も企画を考えていらっしゃるのでしょう。熱い想いに応えたロングインタビューです。読み応えは保障いたします!
吉田正治
YOSHIDA SHOJI
下市田学校応援隊・事業担当、歴史民俗資料館「時の駅」・運営委員長
イベント企画、人を楽しませるアイデアを出すこと
手作業、手先があまり器用じゃない
元・教員。引退後は、下市田学校応援隊として「おいでてや寄席」、「桜を愛で、抹茶に親しむ会」といったイベントを数多く開催してきた方。70を越えた今も様々なイベントを考えているバイタリティーに溢れた方。
下市田学校の各種イベント、下市田学校の桜
※校舎中を行ったり来たりしながら、学校の歴史や各部屋の紹介をしてくださいました。
(展示室にて)
明治期に建てられた学校の建物が長野県には12校あって、これまで回ってきたんだけど、こうやってイベントをやっているところは無いんですよ。だいたいは学校の歴史を展示で紹介するくらい。
だから、この下市田学校に人を呼んで交流したいと思っていたんですよ。それを見て、他所様もこんな風にできるな、と思ってもらいたくて。お互いに情報交換できれば、すごくいいでしょ?でも、やっぱり展示だけのところばかりですね。イベントをやっているところは無いです。
(教室にて)
これは昭和の始め、戦後の教室を再現したものですね。今の校舎では味わえない雰囲気ですよね。
いいですねぇ。木造の温もりがあります。
昔は窓ではなくて、障子だったんですよ。戸板もあってね。
現在の見た目よりもさらに和風な造りだったわけですね。
そうです。明治の始めはまだ学校が無かったんですね。そこで、当時の筑摩県権令・永山盛輝が「教育は立県の柱。現今の急務は学校なり」と学問の大切さを説いて、各地に学校を作るよう言ったわけです。ただ、県としても予算がなくて、お金が出せなかった。それで地元の方々に寄付を募ったわけです。それにいたく感動した地元の人達がボロを縫ったお金、草鞋(わらじ)を編んで得たお金、そうしたなけなしのお金を「子供たちのためなら」と寄付して、学校ができたんですね。それが1875年(明治8)です。
ところが、その校舎は1886年(明治19)に火災のため焼失してしまって、今残されている校舎は1888年(明治21)に再建されたものなんです。
元々、校舎は少し離れた萩山神社参道の横にあって、天竜川の方を向いて建っていたんですね。それが1911年(明治44)に生徒数の増加もあって、今の場所へ移転されてきて、戦後は下伊那農業高校の市田分校から高森分校になっていくわけです。
長い歴史の中で、何度も校舎取り壊しの危機があって、学校が市田小学校に統合された時や、下伊那農業高校・高森分校が閉校された時、現在は隣にある下市田保育園が出来る時に取り壊す話が出たわけですが、地元の人達の熱い想いがあって明治の文化遺産を今日まで守ってこられたのだと思います。
(下市田学校・正面)
建物としては洋風建築で中央に唐破風を配した偽洋風の造りです。玄関2階の中央にある唐破風は木曽の名工・坂田亀吉(宮大工)が建築したもので、当時の村民が学校に寄せる熱意がうかがえます。
宮大工が建てたんですね。
(かつて周辺にあった学校の写真を見せてもらいつつ)昔の建物はみんな取り壊されてしまったんです。山吹、吉田、座光寺、上郷にもあったんですね。今残しておけばよかったのに、と思いますね。牛牧の学校の玄関も同じような唐破風造りでしたが、取り壊されて、今は松岡城址の松源寺にそのまま移築されています。NHKの大河(『おんな城主直虎』)でも有名ですよね、松岡城。だから、如何に古い建物が沢山あったか、ということなんですね。それが昭和になって新しい鉄筋コンクリートの学校が出来ると、古い建物はみんな壊されてしまった。
それだけの数の学校があったということは、昔は子供たちも多かったということでしょうね。
(当時の写真を見せつつ)校舎前に並ぶ児童がこの人数(ざっと100~150名)ですから、当時は子沢山の家庭が多かったんでしょう。
(インタビューを行った教室にて)
過去に開催したイベントのポスターが沢山ありますね。
これね、ノエミさん(同行カメラマン)が講演した時のポスターですね。ノエミさんが役場の職員になって、すぐの時期に会ったんですよ。それで、フランスから来られた方で、今度役場に職員になった、って聞いてね。「あっ、これだ」と思ったんですね。7月にある「下市田学校にお泊まりしようよ!」企画の講師をお願いしよう、フランスのこと話してもらおうと思ってね。ところが、コロナでね、ダメになってしまった。当初ノエミさんは1年契約だと聞いたものだから、来年は出来ないと思って、人数を20名に制限したり、座席の間隔を空けたり、工夫して一般の方々を対象に開催したんです。よくまとまった良い話を聞かせてもらいました。
(ノエミさん)このイベントがあったおかげで日本語が上手くなった気がします(笑)
そう(笑)。私も幾らか貢献できたかな。
これが最初のイベント(「ふれあい陶器市」)のポスターです。応援隊に入るきっかけとしては、平成20~21年に下市田学校の「平成の修繕」が行われて、その後に一般公開がありましてね。私、退職前は教員だったものですから、この校舎を見て「こんな良い建物が近くにあったのか」と思ったんですね。その折に町の教育委員会の呼びかけで「下市田学校応援隊」が募集されました。設立の趣旨として学校の簡単な修繕や補修、各種講座の運営補助や自主活動がありまして、私は即座に応募しました。手始めに実施したのは2階の講堂に手すりを付けること、さらに排水路の整備作業ですね。
ところが、町の方からはなかなかアクションが出てこない。せっかくの良い建物が勿体ないということで、周囲の方々を呼んで、最初に行ったのが「ふれあい陶器市」です。今、陶芸クラブは1つだけですが、昔は4つあったんですね。イベントではその方達の制作した陶器を見てもらったり、あるいは即売会で直接買ってもらったりしていました。
次に開催したのは「おいでてや寄席」です。元々私は落語が好きでね、教員時代は落語クラブを担当したこともあります。そこで、参加している生徒に学園祭で落語をやってもらったりしてね。その寄席の雰囲気、本物の落語をこの地元の方々に味わってもらいたいと思ったわけです。いざ寄席を見に行こう、と思ってもこの地域の方は縁遠いですからね。
飯田の方に「伊賀良寄席」という寄席をやっている愛好会があるんですが、そこへ「どなたかご紹介いただけませんか」とお願いすると、前座の立川らく兵さんという方をご紹介いただきまして、そのらく兵さんをお招きして開催したのが最初です。多くの地域の皆さんに寄席の雰囲気を味わっていただこうと思って、無料で開催しました。それで、ただ寄席だけ見て帰るんじゃなくて、ここでゆっくりお茶でも飲んで、この古き良き校舎を味わってもらうのがいいと思いまして、寄席の後にはカフェのようにくつろげるよう、別室のレイアウトを変えるんですね。そこでお茶やコーヒーを楽しんでもらって、応援隊のメンバー手作りの漬物や菓子を振舞いました。
地元の文化、物作りを絶やさない意味で他にもイベントを開催してきました。例えば、竹細工を習得するイベントを開催しました。この講師は豊丘の方でしたが、希望者に竹細工の技術を披露してもらって、作り方を教えてもらいました。伝統が受け継がれていけばいいな、という思いでしたね。
あと、地域伝統の「三段草鞋(わらじ)」を伝承してもらおうと思って、草鞋を作るイベントも行いました。これを地域の獅子舞の時に履くんですね。
次に、今も続いている「桜を愛で、抹茶に親しむ会」です。昔はこの校舎の周囲にも桜(エドヒガン)が沢山植わっていたんですが、切られてしまって、今エドヒガンは4本しかないんですけれど、その桜が咲くと綺麗なものですから、桜を見ながら抹茶を飲んだり、というイベントを開催しました。同時に室内では色々な展示をしてね。
そこで雰囲気が出るだろうと、最初はラジカセで宮城道雄作曲の「春の海(お正月によく流れる曲)」を流していたんですね。ただ、せっかくなら生演奏の方がいいんじゃないかということで、地元の女子高校の邦楽クラブの方々を呼んで演奏してもらったんですね。これがなかなか評判が良かったんです。
ところが、コロナでね、桜と一緒に楽しむ抹茶が提供できなくなってしまったんです。なので、邦楽の演奏と桜を見てもらうイベントにしたわけです。
(女子高校の邦楽クラブによる演奏と桜)
コロナで様々な工夫を余儀なくされたわけですね。
そうそう。雨が降った場合は、室内で開催したりね。それで、しばらく活動していると、イベントにご両親に連れられて来ていたお子さんが、応援隊に入りたい!と言ってくれたんです。その子が「学校でお泊りしたい」と言ったものですから、子供が継続して参加できるもので、普段体験できないものを、ということで企画したのが「下市田学校にお泊りしようよ!」です。
(開催の様子)
学校に泊まって、地域探検をしたり、皆で分担して夕食のカレー作りをしたり、夜は度胸試しで、学校の教室にロウソク1本立てて怖い話をしたりね。
この校舎でやる怖い話は雰囲気があって物凄く怖そうです(笑)
その後は、グループ毎に懐中電灯1本で付近の萩山神社の境内を歩くんです。
うわぁ…絶対怖いです(笑)
その後は、ナイト・ズーをやります。この辺はキツネ、タヌキ、フクロウといった動物がいるので、ライト1本だけで動物たちを探しに行くんです。動物たちは夜に目が光りますから、ライトを消して観察するわけです。でも、いつも出るわけじゃないので、そういう時には森の中でカブト虫を見つけたりしますね。
夜は、講堂で蚊帳を吊って寝ます。翌朝はラジオ体操、記念写真を撮って、午前中は講師を招いてお話をしてもらっています。今年は似顔絵教室をやりました。ここでやる内容は毎年違うものにしています。その後、この2日間の感想を作文にしてもらって、最後は皆で流しそうめんを楽しみます。
そうめんの投入口は学校1階にある台所から続いているんですね。ずいぶん長いですね!
普段はなかなかこういう経験は出来ませんからね。
あとはクリスマスマーケットとか開催しています。コロナで出店する機会の少ない方々にとって少しでも利益になれば、と思って開催しています。
これまで沢山企画をされていますが、こうした企画は、応援隊で集まって考えるのでしょうか?
こう言うとあれだけど、だいたい私の考えでやっていますね。「よし、これをやってやろう」と企画案を書いて、皆で打合せをするわけです。そこで意見が出るでしょ?それを生かして改善していって、というやり方ですね。
毎年少しずつブラッシュアップされてるわけですね。
「お泊まりしようよ!」もできるだけ毎年違う内容を用意しています。「おいでてや寄席」の演目も毎年変わりますし、展示も毎回変えています。ただ、「桜を愛で、抹茶に親しむ会」は邦楽演奏の評判が物凄くて、「感動しました。ぜひ来年もやってください!」という声が多かったので、じゃあこれだけは続けてやろう、と毎年の恒例になりました。ただ、同時開催の展示会は内容を毎回変えています。
私はこの明治から続く校舎を守って、この下市田にはこんな良い建造物があるというのをお伝えしたいだけなんですね。それが町の人達に広く伝わっていかないことが課題なんです。これまで、新聞に掲載してもらったり、有線放送を流したり、ポスターでPRをしてきましたが、それでも伝わりきっていない現状があります。だから、高森町だけじゃなく、下伊那郡全体にも広く知ってほしいな、という気持ちで活動しています。だから、町のお抱えにならないように、応援隊が主体的に動けるような運営をしています。
「おいでてや寄席」に現在来ていただいている立川寸志さんは、今「二ツ目(真打の一段下)」なんです。もう真打になれる実力がある方なんだけど、まだまだ芸を磨きたいというので、二ツ目に留まっている方なんですよ。
(館川寸志さん)
立派な方ですね。
もともと、この方はサラリーマンだったんですよ。それでも落語家になりたい、ということで奥さんに相談したそうなんですね、すると、奥さんが「わかった。じゃあ60歳までは私が食べさせるから、60歳を過ぎたら、今度はあなたが私を食べさせてよ」と言われたそうです。それで感動してね。
ただ、応援隊は、そうした落語家さんへの謝礼や活動費といった資金があまりないので、色々な支援金に応募したり、地元の企業や有志にお願いしに行ったり、寄付を募ったりしています。支援をいただいた場合は、その方々のお名前を「おいでてや寄席」の会場に貼り出すようにしているんです。周囲から「木戸銭を取ってもいいじゃないか」と言われることもありますが、そうすると落語が好きな方は来るかもしれないけれど、一般の方々の敷居が高くなっちゃうでしょう。だから、これまで無料で開催してきました。
本当に吉田さんの熱意でこれまでのイベントが行われてきたということですね。
私はあまり詳しくないんだけど、県外からSNSを見て訪ねてくれる方もいるんですよ。地元の人でない方が時々訪れるんだけど、お話を聞くとSNSを見たっていうんですよ。よければ案内しますよ、ってお話を聞いていくと、その方は藤沢市から来たって言うんだよね。中には九州から来た方もいましたよ。「色んなところから来てくださっているんだ」と嬉しくなってね。
もしかしたら高森町のSNSやタウンプロモーションのメンバーのSNSをご覧になったのかもしれませんね。
せっかくこの辺に来たら、ここだけじゃなくて松岡城跡とか、綺麗な場所をいっぱい見てもらいたいね。
今、昔ながらの建物や施設を見たい、という方は増えていると感じます。
都会から来ている人はみんなそうです。校舎を見て回って、机に触ってみたりしてね。木造の温かみがあるんでしょうね。
そういえば、名刺渡してませんでしたね。
すみません、ありがとうございます(名刺をいただくと、妙に白地のスペースが多い)。
時間がある時は、この空いたスペースに絵を描いてお渡しするんですよ。今回は時間が無かったもんで(笑)
いやぁ、いいですね。今度ぜひお願いします。それでは、この辺で質問の内容に戻らせていただきますね。吉田さんは元々、高森町の方ですか?
出身は大阪です。妻の出身がこの地域なんですよ。それで、義父が「この辺りの土地を買っておけ」って言うもんでね。でも、来てみたら眺めもいいし、関西にも近いし、まぁいいかと住み始めたのがきっかけです。
なるほど。普段は教師のお仕事を…?
いやもう、とっくに引退していますよ(笑)。もう15年以上になる。76歳になるからね。
えぇー!全然その歳に見えない!
退職してからのことも話していい?(笑)
お願いします。
教員を辞めると、再任用というのが3年間あるんですよ。最初の1年は「これ以外に自分を生かす道はなし」と思ってやったんだけど、「ちょっと待てよ。俺が元気で動けるのはあと10年くらいだ。狭い世界にずっと居るよりも他のことをやった方がいいんじゃないか」と思って辞めたんですよ。それから、自分のやりたいことを考えてね、町で水墨画や美人画を教えてくれる教室に入ったんです。
ところが半年して、私は健康のために毎朝ウォーキングしとるんだけど、身体の感覚を鍛えるのに良いって聞いてから、後ろ歩きでウォーキングしていたんですね。その時に、たまたま人が通りがかってね、後ろ歩きで怪しまれると思って急いだ時に転んでしまって、骨折してしまったんですよ。
それで治療してもらって、ギブスが取れた後、腕が動かなくなったのね。こりゃいかん、と思って長期に亘ってリハビリしたんだけど、もう絵の方は諦めた。そんな時に応援隊の募集があったんです。
なるほど。そういった経緯でしたか。
また、話が脱線するけど、その時分、地元の若者で結婚していない人が多いと感じて、実際に赴任していた学校でも未婚の先生が多かったわけ。だから、なんとか力になりたいと思ったんです。当時、「松川青年の家」っていうのがあったのね。そこの担当者と知り合いだったものだから、何かイベントできないかと相談してみたわけです。リンゴ狩りなんかを男女でやったら婚活になるんじゃないかって。その時は断られちゃったんですが…。
その後、退職してから下伊那北部の5町村で結婚相談所を作るって知ったの。「愛ねっと北部」という名前でね。その時に「よし、これだ」と思って、即応募しましたね。倍率は高かったんですが、採用されました。その後、相談所でなにをやるか、検討し始めました。で、いざ5町村の登録名簿をもらったら、男性30人のところ、女性が数名だけ。だから、イベントをやって登録してくれる若い方を増やそうと思ったんです。
で、いざイベントをやったら、参加してくれたのは男性15名、女性は3名だった。それで、なんとかしようと色々掛け合って、女性が7名になった。だから、男女を2:1で分けて、共同でケーキ作りをやってもらってね。他にも、出会いの場として、まんべんなく話が出来るように席替えしたり、ゲームをしたりね。
それでも登録者が増えなかった。だから、女性の登録者を増やしたいと思ってね。何だろうなと思った時に女性は「メイク」だなと。それで、飯田には「おぐねー(プロのヘアメイクアーティスト)」がいたなと思ってね。で、「おぐねー」を呼んで、女性限定のイベントをやろうと思ったんです。
でも、呼ぶのにかなりの費用が掛かるし、全国的に有名になった「おぐねー」がわざわざこの田舎に来てくれるのか、って思ってね。謝礼もなけなしの金額しか集まらない。それで、「おぐねー」側にお願いしたら、「地元に貢献できるなら」って、格安で引き受けてくれたんですよ。
それで、実際にイベントやる時に、普通メイクさんはモデルを連れてくるんだけど「参加者からモデルを選んでほしい」とお願いをしたら聞き入れてくださったんです。だから、イベント参加者に「おぐねーにメイクしてもらえますよ」ってモデルの希望者を募ってね。参加者には「おぐねー」が推奨しているビューラーをお土産に用意しました。
色々と不安材料はありましたけれど、いざ開催してみたらお客さんがわんさか来てくれた。最後にはおぐねーとツーショット写真を撮れるようにしてね。写真にはおぐねーのサインを入れてもらったんです。これが好評でしてね。
その効果もあって、段々女性の参加者が増えてきましたね。で、次は何をやろうかと思って色々と企画をしました。男女を集めてクリスマスパーティーをしたり、男女で恋バスツアーをしたりね。で、バスの座席は女性を窓側にして、男性を通路側にするの。で、男性を時間でどんどん回転させるわけ。
なるほど(笑)
バスツアーでは、伊勢神宮や恋路ヶ浜、明治村など、色々なスポットに行きましたよ。
地域では、「婚活農業体験」というのをやりました。下伊那の特徴として、やっぱり果樹が沢山あるでしょ、その中でもリンゴ狩りだろうな、と。それで、若手で独身の農家さんを募ってね、集まってくれた若者を写真撮ってポスターにして、名古屋の方でPRしたんです。するとね、名古屋以外にも関東からも希望者が来たんですよ。で、実際にリンゴ狩りとか体験をしてもらってね。あとは会場を用意して共同で料理をしてもらったり、グループで観光スポットに行ってもらったり。そうしたら、実際にカップルが出来たんですよ。その1組は結婚されて高森町に住んでいます。
この仕事はずっとやってもよかったんだけど、これからの時代はSNSも必要だし、若い方に仕事を継いでほしいな、と思って70歳を機に相談所は辞めることにしたんです。私が辞めてからは、あんまりイベントもやっていないみたいですけどね。
吉田さんの企画で、結婚相談所も盛り上がっていたのかもしれませんね。これまでもイベントを数多く企画されてきたと思いますが、下市田学校応援隊に活かされている部分はありますか。
そういったイベントが好きだったのかもしれないね。教師をしていた頃も文化祭とか色々と行事があるでしょう?そういう時に「こういう催し物をやったらいいんじゃないか」と助言したこともあります。そういうのが活かされているんじゃないかと思いますね。
今、思い付いている新しい企画はありますか?
私も後期高齢者になって、物覚えが悪くなってきた。体力も衰えてきた。教員だった頃はクラスの生徒の名前は次の日には覚えていたのにね。
今、考えていることは、今や『人生100年時代』といって、高齢者が人口の全体の3割になるでしょう。現役を引退された方とか、歳をとって家にずっと居る方とか、そういった方に気軽に下市田学校に集まっていただいて、その方の話を聞くというのを定期的にやりたいと思うんです。やっぱり長く生きてきた方はそれなりの経験をされていると思うんですよ。苦労されたことやら人それぞれあると思うんですが、そういった話を聞くと、「こんな世界もあるのか」と社会を見る目を養うことができますね。視野が広がりますね。そういったお話の輪を、最初はこの方、次はこの方…と広げていくことを今後はやっていきたいなと。それを定期的にやれるようにしたいですね。
ただ、どういった形で参加する方に呼び掛けるか、これが課題じゃないかと思っています。
今だとやはりSNSでの呼びかけがよいかと思いますね。
やっぱりSNSかぁ。この歳になると難しいんですよ(笑)
今までの情報発信、新聞やポスターや広告といったやり方だけじゃ人を呼び込むのは難しいな、とは思っているんです。だから、よい情報発信の手段が見つかれば、まだまだ色々とアイデアはあるんですよ。
イベントのアイデアや情報発信を町に伝えてもらって、町のSNSで発信してもらうという方法もありますね。
『おいでてや寄席』とかイベントの情報があればお伝えするようにしますね。
ありがとうございます。吉田さんが思う町のいいところはどこでしょうか。
これからリニアも通るでしょうし、町には松岡城址や不動滝といった見どころが沢山ありますね。ただ、もう少し町が下市田学校をプッシュしてくれると嬉しいんだけどね(笑)。
本当にそうですね。吉田さんみたいに地域で何かやりたいという方がいらっしゃることを僕らももっと伝えていきたいと思います!
およそ2時間に及ぶインタビューでしたが、話が尽きることはありませんでした。実にバイタリティーのある方で、こちらも身が引き締まる思いがしました。「もう歳でね」なんておっしゃいますが、まだまだ沢山のアイデアをお持ちの様子でした。
下市田学校は、和洋の建築技術が活かされた、非常に趣きのある建物です。木造ならではの温もり、ノスタルジックな教室の風景は一見の価値があります。ぜひ一度、訪ねてみてはいかがでしょうか。
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写真:Noémie
文:Hattori
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※本記事は2023年10月04日時点の内容を掲載しております