祖父母の代で広島の原爆投下があり、その後の原爆被害を目の当たりにしてきた山内さん。遺伝的に身体が弱く、今も車椅子の生活を送っていること、幼い頃に両親の過剰な教育によってうつ病を患い、長く闘病してきた過去も語ってくださいました。しかし、当の本人は、そんな辛い過去を感じさせず「今の私を全部受け入れている」と明るく語ってくださいました。
原爆の被害を乗り越え、高森町・丸山公園の「平和の丘」に植樹された「アオギリの木」二世を「同士」と語る山内さん。染み入るようなお話を聞かせてくださいました。
山内智子
YAMAUCHI TOMOKO
アオギリの会 会長
英語、演劇、ピアノ
同年代の男性
高森町と町民の共創事業「高森伝えたい想いアオギリの木にたくして(略称:アオギリの会)」の会長。 祖父母の代で原爆投下があり、原爆の被害を見て育った。現在、原爆投下日に合わせて原爆の被害と平和の重要性を伝えたり、被爆アオギリ二世から種を採取し、被爆アオギリ三世を育てて平和を継承する活動を行っている。 語学が堪能で、ピアノが得意。今好きなことは近所の川へ歌を歌いに行くこと。サザンオールスターズを歌うとご機嫌。 チャームポイントは年齢不詳な幼さ。
高森町のゆっくりとした時間
(※当初は丸山公園にてインタビュー予定でしたが、雷雨により屋内でのインタビューとなりました)
祖父母の代に広島で被爆されたとお聞きしました。
私の両親の祖父母のうち、3人が被爆したの。
先ほどから英語でお話されていますが、語学は留学や移住で学んだのでしょうか。
当時、広島では20万人くらいの死者が出たんだけど、その後も後遺症などで合わせて30万人くらいが亡くなったのかな、正確な数字がわからないくらい多くの人が亡くなったの。だから、普通の教育を受けているだけだと生きていかれない時代だったのね。だから、将来を考えて、英語を習得したの。
父は英語と韓国語がペラペラだったから、海外で仕事したりしていたの。英語を学んだのは将来困らないようにするため。あとはピアノも4歳から習わされたよ。
なるほど、そういった経緯でしたか。
でもちょっと教育が過剰だったの。両親も普通にしていたら、生きられないっていう怖さがあったんだと思うの。そういう過剰な教育が子供時代は辛かった。英語やピアノや勉強が嫌で、もっと遊びたかったなって。今になったら、両親も悪気があってやったことじゃないのはわかるんだけどね。
その後、広島から飯田市に移住されましたね。移住してきて、住み心地はどうでしたか。
飯田市のお隣にある高森町は、戦争被害者への意識が凄く高いところだったの。平成元年から広島へ平和バスを送っていてね。だから戦争についてちゃんと勉強している地域だったの。そうした地域へ広島出身の私が来たから、とても温かく歓迎してくれた。高森町は、非核宣言、平和宣言の町だから。
平和バスといい、この長野県・高森町と広島県の繋がりが不思議ですよね。
平和バスを発案したのは前の町長さんと宮島さんという方で、そこで広島の話が出て、それで、広島の平和式典に行きたいって話になったらしいの。それで、日帰りでバスを借りて平和式典に行っちゃったんだって!
それが最初って聞いたよ。それからコロナ禍になるまで毎年、広島にバスを送っていたんだけど、コロナが落ち着いたから今年も平和バスを広島に派遣してくださったの。
僕も長野県と戦争被害の関係を調べていて、資料によるとこの高森町から満州へ開拓のため人を送っていたそうですね。
そうそう!少年義勇兵としてね。
それがこの地域の平和への意識の高さに繋がっているように思ったんです。
そうなの。この地域は平和への意識が高いのよ。ここに来る前に住んでいた地域はここまでじゃなかったよ。それで、8月6日には夏休みでも小学生は登校して平和の歌を歌ってくれていたり平和学習をしてくれていたの。知った時は嬉しくて涙が出ました。
満州の開拓の記念館がありますよね。行ってみたいと思いました。
満蒙開拓平和記念館ね。ぜひ行ってみて。私もいつか行ってみたいと思ってるよ。
そうします。このアオギリの会の活動は、町の有志の方が参加しているのでしょうか。
そうそう。最初は有志の人が集まって、アオギリの木の被爆三世の種を拾おう、という取組を始めたのがきっかけ。有志のメンバーは今20人くらいになったかな。
活動としては、持ってきていただきましたが、小学校で紙芝居を披露されたり。
これは、まだ講演では使っていないものなんだけど、有志メンバーの熊谷さん(アオギリの会メンバー)が小学校などで紙芝居を披露されているから、「被爆アオギリの紙芝居を作らないか」ってある時お話が出て、それで作ったの。
これはアオギリの木のお話でね。例えば、原爆が投下された時、塀の内側に居たから助かった人も居るし、割れて飛んできたガラスが身体に刺さった人も居てね。その中でアオギリの木も被爆したんだけど、その木がどうなったかを伝えるストーリーなの。
紙芝居の中に、被爆した人の中でもドクダミを飲んだ人は助かった、という話も入れているの。ドクダミには解毒作用があるって信じて飲み続けた人が実際に広島に居てね、ドクダミは煎じて飲むんだけど、飲み続けていたら、生死の境をさまよっていた人が奇跡的に生き残ったんだって!その被爆したアオギリの木の二世が今高森町の平和の丘に植えられていて今も育っています、という流れのお話なの。
僕は学生時代に卒論の研究で長崎に行ったことがあるのですが、あちらも原爆の遺構がまだ残っているんですよね。原爆で吹き飛んだ建物の柱がそのまま残っていました。
原爆の被害で言えば、長崎の医師が記録した『死の同心円』という本がありまして、それによると、同心円状に被害状況が変わっていったそうなんです。そんな話を思い出しました。
私の悲劇は、爆心地から約400mの場所におばあちゃんの家があったこと。私は被害が大きくなかった南区で生まれて、父方の親戚は大丈夫だったんだけど、母方の親戚は多くが亡くなったの。最初はどうして父方の親戚が長生きして、母方の親戚が大勢死ぬのかわからなかった。でも、それは近い距離で被爆したから。その分、放射能を沢山浴びて後遺症が続いたのね。
残留した放射能の影響もありますからね。広島で暮らしていた頃、周りからいじめられた、というお話を見ました。なぜなんでしょうか。
「車椅子から降りて歩かない限り付き合わない」って言われたこともあった。それは悲しいけど、当たり前のことなの。簡単に言うと、自分が結婚して子供が出来た時に、子供にも後遺症が遺伝してしまうと言われていたから。
例えば、頭の小さい子が生まれたり、耳のない子が生まれたり、そういうことが多かったの。
でもそれって誰も悪くないのよ。だって、自分の子供が奇形で生まれてしまったら、その子が将来困ることになるでしょ?だからそれを避けたいって思ってしまうのね。本当は差別なんてしたくないけど、将来を考えるとどうしても避けてしまう。
自然とそう考えてしまうでしょうね。
だから、誰も悪くないのよ。私は受け入れている。だって、子供ができたら五体満足で生まれることが子供にとっても生きていきやすいし、親としても安心するでしょ。例えば、私の先輩は生まれつき耳が無かったの。
そういう理由で母が私を授かった時もあまり喜ばれなかった。それで生まれた時に、まず身体の部位がぜんぶ揃っているか、確認されたの。それで、ちゃんと五体満足で生まれてきた!と初めて喜んでもらえた。でも、赤ちゃんの頃から凄く弱い子供だった。食べ物も受け付けなくて、吐いてしまったり。吐くと苦しいからよく泣いていたのを覚えているけど、そんな時に母が色々と話をしてくれて、気を紛らわせてくれた。
戦争の記憶って過去のものと思いがちですけど、影響って今だに続いているんですね。
そんなことない。今も影響が続いているのよ。でも、飯田市に来て、無農薬の農業をしてからすごく元気になったけどね。
でもね、私は誰も悪くないと思うの。原爆の素材になったウランだって、人間を殺したいわけじゃないでしょ。勝手に掘り起こされて、爆弾にされて、広島・長崎の人を沢山殺して、それで「お前を許さない」って言われてもね。放っておいてくれ、って言うと思う。
確かに私の祖父母は原爆投下で悲惨な目に遭ったけど、それも私の一部なの。その後、両親の教育が厳し過ぎて、若くしてうつ病になった。原爆の影響もあった。被爆した地域の人間ということでいじめられたし、今も車椅子に乗っている。でもそれもひっくるめて今の私だから全然いいの。
辛いこと、大変なことを一つ一つ受け入れていったんですね。
そう。ぜんぶまとめて私なの。だから、原爆も恨んでいないし、「原爆許すまじ」って歌う人がいるけど、そういう人がいてもいいの。
私は10代の頃、両親の教育が厳しくて心を病んだけれど、その時は感情も無くなって、好きだった食べ物も好きだという感情が無くなっちゃったの。
多感でアイデンティティが出来てくる年代にそうした環境は辛いですね。
普通は10代そこそこでそういう病気にならないのよ。でも、それでもいいのよ。両親なりの善意で、良かれと思ってやっていたんだからいいの。
(絶句している筆者を見て)過去の苦労を感じさせないね、とはよく言われる。それはアフリカにボランティアで行ったことがきっかけなの。ビザの関係で3ヵ月だけだったけどすごく考え方が変わった。それまで人生にすごく悲観的だったのに、アフリカに行って変わったの。場所は南アフリカのヨハネスブルグだったんだけど、多くの黒人さんは貧しくて、食べ物もなくて、っていう環境に居ると色々と考えるのよ。
自分を変えるために何か行動するって思っていても難しいですよね。
アフリカにボランティアのため行った、って言うと立派だ、とか偉いって言われるけど、私は違うの。これまでの自分がなんでこんなに病んでいるのか、両親もなんであんなことをしたんだろう、とか、色々な悩みと向き合えたのね。アフリカの人達って本当に過酷なの。本当に骨と皮だけの人が食べ物が欲しい、仕事が欲しい、と言ってやってくるの。あれはとても悲しかった。
壮絶ですね…。その後、帰国されたんですね。
そう。帰国してわかったのは、世界は愛でできているってこと。世界中を回って、愛情に触れて帰ってきたから、これからは愛を持って生きようと思ったの。
人って怒っている時は本当の自分じゃないでしょ。我を忘れる、じゃないけど、人って怒っている時は本来の自分じゃないのよ。
その人がどういう状態になっているか、って私たちには関係ないの。その人の中で何か問題があるだけで、それを私たちにぶつけているだけだと考えるようにしてる。
そんな感じで、被爆した地域に生まれた自分も本当の私とは切り離して考えるようにしているの。
私は皆と違って身体が弱いし、車椅子だし、原爆の被害者だ、可哀想でしょ、って生きていったっていいけど、そんな人生はまっぴらごめんなの(笑)せっかくだから楽しまなくちゃ。
みんな一緒なのよ。大なり小なり嫌なことがあるし、私はそれがたまたま原爆だっただけなのよ。
考え方ひとつではありますが、その境地に至るのはすごく難しいですね。
そうなるまでは、本当に長かった。両親をずっと恨んでいて、本当に「人生を返して」とも思った。でもそれは間違いで、彼らなりの愛をものすごく与えてくれて、一生懸命やってくれていただけなのよ。
身につまされる話です。
(※雨が止んだので、丸山公園に移動しました)
(アオギリの木の前にて)私、悲しいことがあるとここに来るの。ここに来ると元気になるのよ。この移植された被爆アオギリも30年くらい花が咲かなかったんだよ。
それも被爆した影響なんですか?
そうなのよ。でも、私とアオギリの木は被害者同盟じゃなくて、強く生きた兄弟なのよ。お互いによく生きてきたよねって。大好きなの。本当に親友みたい、いや私にとっては戦火を潜り抜けた戦友って感じかな。私もうつ病の時は死んだようなもんだったけど、今生きているからOKじゃん、みたいなね。
心を病んでみないとわからないこともありますからね。
ホントよ~。わからないのよ。大人にならないとわからないこともあったし、過去もひっくるめてパーフェクトだと思うようにしてる。
(同行カメラマンに)あっ、写真は美人の写真だけ残しておいてね(笑)誰も言わないけど、笑顔は可愛いんだから(笑)
(同行カメラマン)もちろんです!(笑)
あと、高森人図鑑のプロフィール的な部分を聞いていきますね。まず得意なこと(必殺技)ですね。
得意なことは英語と、あとは演劇だね。それからピアノ、元ピアニストだから。
逆に苦手なことは?
男性全般。
男がインタビューしてしまって、すみません(笑)
いや、お年寄りとか小さい子はいいんだけど、同世代の中年くらいの男性が苦手なの。昔、セクハラされたりしてトラウマになってるのよね。
でも、男性が苦手で良かったとも思ってる。苦手だから浮気もしないし、旦那さんになる人にとっては良いことだと思うの。変に言い寄られたらコテンパンにして逃げるもん。今は旦那さんがいないけど、未来の旦那さん一途なの!(笑)この考え方、面白くない?
考え方ひとつですね。
男性が苦手、っていうのも個性だと思うの。なんかもう開き直っちゃってる(笑)
女性って大なり小なり嫌な思いをしてきているから、何か男性からセクハラとか、いやらしいことされたら嫌になるのよ。でもね、私が男に生まれてたら、どうだったかわからないよ。そういう男になっていたかもしれないし。
ご自身のチャームポイントはどこでしょうか。
幼いこと。4歳からずっとピアノを弾いていて、30歳で引退したんだけど、周りを見たら、私だけ幼い感じがしたのね。
ずっとピアノを弾いているだけだったから、人生経験が少なくて、子供のまま年を取っちゃった感じ。だから、大人の魅力は発していないけど(笑)、みんなからは可愛い、可愛いって言われてきたのね。以前、先生やっていた時のあだ名は「8歳児先生」だったのよ(笑)それで、年度が変わったら、今度は「9歳児先生」って(笑)
(笑)
だから、今の年齢になっても、昔のままなんだよね。だから未来の旦那さんがいないのかもしれない。女の魅力じゃなくて、女の子の魅力なのかもしれない(笑)
年齢不詳な感じで。
そう、それ!とても今の年齢にふさわしい感じじゃないのよ。でも、そうやって昔からずっとピアノばかりだったからしょうがないのよ。だから、幼いことがチャームポイントでいいの。
あとは、脳内が常にお天気。これはアフリカに行った影響でね、ずっと明るい考えでいられるの。これは自慢ね。
山内さんが思う高森のいいところはどこでしょうか。
広島の都会から出てきたから、飯田市や高森町は時間の経過がすごくゆっくりだと感じるよね。都会だと仕事と家事に追われる感じだけど、高森町の辺りは時間がゆっくりしてる。そこが大好きなの。都会に居たら、空を見上げる暇もないでしょ。空見ている暇があったら、次の仕事してる(笑)
ここでは空を見て、ボーっとして、星が出てるな、とか山が綺麗だな、とか。あとは、今日は川へ行って歌おうかな、とかピアノ弾いてYouTubeで撮ろうかな、とか。
いいですね。高森町が住み良いな、と思うのはどんなところでしょうか。
川を見ながら歌えること。高森町には天竜川があるけど、私はいつも歩いて10分くらいの松川に行って歌を歌っているの。川で歌おうと思っている曲がノート2冊分くらいあって、それを歌いに行くのが好きなのよ。
それはどんな歌を歌いに行くんですか。
私はサザンオールスターズが好きだから、サザンの歌をよく歌いに行くの。『夏をあきらめないで』とか。今だったら『愛の言霊』かな。(と言って、一節歌ってくれました)
そうやって川へ行って、サザンを歌えばご機嫌(笑)。特に夏なの、サザンと言えば夏なのよ。
ありがとうございます。最後に地域の方などにメッセージがあればお願いします。
自分が良かったのは、うつ病になって入院したりと滅多にない経験をして、精神疾患の方の気持ちもわかるし、しかも車椅子だから身体障がい者の気持ちもわかる。ほんとにアフリカに行くまでずっとうつ病だった。だから、そうした病んだ方や身体の弱い方の気持ちがわかるのがよかったところ。
私は広島で8年間カウンセラーもしていたから、そうした言わば弱い者の気持ちがわかるのよ。そうした方の気持ちがわかるっていうのは、すごく良い人生だったと思うの。誰よりも良い人生だったと思っている。車椅子になったのも、アフリカに行ったのも、こういう人生を歩んできたからだと思う。確かに原爆が落ちて、苦しい思いも沢山したけれど、その分得たものも沢山あった。メッセージがあるとすれば、悲しいことなんて、全部後でプラスに変わるってことかな。
実に良いお話をいただきました。ありがとうございました!
山内さんは現在、車椅子生活を送っており、過去には鬱や両親の教育に悩んだ時期があったそうですが、そうした苦労を果敢に受け入れていった話を聞き、言葉が詰まりました。それでいて、まるで子供のような明るさがあったのが実に印象的でした。
平和の丘に植樹された「アオギリの木」のそばで「彼は戦友」と語る山内さんの年齢を感じさせない表情と小柄な姿がどことなく「木の妖精」のように感じられました。素敵な方でした。
--
写真:Noémie
文:Hattori
--
※本記事は2023年10月03日時点の内容を掲載しております