雨の中、自宅の倉庫に机と椅子を出していただき、インタビューをさせていただいた。
気さくに、どんな質問も嫌な顔をせずに答えてくれる優しさ、息子さんへの思いやり、
そして、近隣の農家さんからお呼びがかかると「困った時はお互い様」の精神で手伝いに行く、というナイスガイ。
近所の方を集めて定期的に行う飲み会、通称「ゴメス会」は、話を聞くだけで楽しそうです。
José Gomes Duarte(通称:ゴメス)
José Gomes Duarte
農家
「困った時はお互い様」で、近所の農家さんから連絡があればすぐ駆けつけるところ。
特になし。何事も「問題ないね」の精神。
日本に渡って30年以上になるブラジル人の農家さん。山梨県、静岡県等、住処を変えながらトラック運転手などで生計を立て21年前に高森町へ。近隣の方からは「ゴメスさん」の愛称で親しまれている。定期的に催している「ゴメス会」は、近隣の方を招いて行うBBQと飲み会。「次はいつやるの?」と催促されるくらいの人気があるそう。最近、息子さんが本国ブラジルのプロサッカーチームに加入されたとのこと。
高森の人達の風通しの良さ
息子さんがプロサッカーチーム『モジミリンFC』に入られたとのことで、最近ではチームのサポーターをされているそうですね。
日本でサッカーされてる方、プロになりたいとか、そういった方が1ヶ月、3ヵ月、半年単位でブラジルに行ってみたいというのであれば、チームに紹介するようにしているね。
日本にはどれくらいいらっしゃいますか?最初から高森町に?
32年。来日は93年か95年だったかな。最初は成田から群馬県、その後は山梨県で仕事を始めた。次に静岡県の清水でマグロ漁船に乗っていたよ。
その後に自分の仕事を持ったね。冷凍のトラックの中にスーパーと同じようなブラジルの食材を詰めて、配達のようなこともやったよ。
毎日違う街に届けに行ったよ。例えば「このビルにブラジル人が何人か住んでいる」って食材を届けに行くと、向こうも僕のトラックに買い物に来るんだよ。長野県、山梨県、静岡県、神奈川県の川崎、千葉県まで毎日回っていたよ。
あの時は大変だった。今は車やスマートフォンのナビに情報入れたら、場所がわかるでしょ?でも当時はナビなんてないからね、頭の中に道を入れてね。東京も千葉もね。
あとは、トラックが大きいから、道を間違えた時にハンドルが切れないのが大変だった。
その後、静岡県から山梨県へ引っ越して、その後に高森町に住み始めたよ。高森町だけで20年以上だね。長男が高森町に来て半年くらいで生まれて、今年22歳だから、だいたい21年半くらい高森町に住んでいるね。
高森町に移って、最初から農業をされていましたか?
高森町に来た時はまだトラックの仕事をしていたよ。その仕事を辞めて、建築関係の仕事を5年くらいやって、その後から農業を始めたね。
当時、飯田の街にはブラジル人のお店もあってね。でも、15年前くらいに日本の景気が悪くなったじゃない?その時にみんなブラジルに帰っちゃったんだよ。
農業と一緒に違う仕事もしていたよ。当時の町長が東町にあった僕の店に来たし、役場の人も何人か来ていたね。東町にあったハンバーグのレストラン、パン屋、お肉屋で働いていたよ。でもあの頃は景気が悪くてね、みんなクビになったりして大変だったよ。
レストランで一番人気のあるメニューはなんでしたか?
ブラジル料理は色々あるけれど、フェイジョアーダが人気だったね。
あとね、今度「ゴメス会」っていう飲み会をやるのね。そこでバーベキューをやるんだけど、日本とブラジルのバーベキューは全然違うのね。日本と違って、ウインナーとか色々具材があるのね。それを焼いて、ブラジルの柔らかいパンを切れ目を入れて、挟んでトマトやきゅうりを刻んで入れると凄い美味しいんだよ。
美味しそう・・・(笑)
この「ゴメス会」は何回かやってきたね。もし雨が降ったら、ここ(インタビューをしている自宅の倉庫)でやるよ。天気が良ければ、和泉さんの家(「亀じぃ」の近所)でやるつもりだよ。
ゴメスさんから声掛けをするんですか?
呼ばなくても、このゴメス会は沢山の人が来ているから、「次のゴメス会はいつやるんですか?」と聞いてくるんだよね。みんな待ってるんだよね。
楽しそうですね!今、農家としてはどういったものを作られていますか?
田んぼがあって、あとはきゅうりとネギだね。田んぼが広いから、その3種類だけだね。
大阪のお客さんが3人居て、30㎏のお米を毎年1200袋くらい送るんだよ。その時期はすごく忙しいね。5月頭から始まって、10月一杯までは収穫、稲刈りだね。あとは他の農家さんに頼まれると、田植えや稲刈りをやってあげるね。だから忙しいよ。田植えが終わって、少し暇ができたら、あとはずっと忙しいね。
でも今年は、12月くらいにブラジルに帰る予定なんだよ。
それはどういった用事で?
息子の契約のために行くんだよ。どうしようかと思ってね。息子も一度日本に来て、Jリーグの松本山雅、清水エスパルス、名古屋グランパスの3チームと話をしに行こうと思っているんだ。お金の関係が良かったら日本の選手になるかな、とかね。日本育ちだから、学校の勉強も日本語でやってきている。読み書きは日本語でできるんだよ。でも今ちょっとね、息子がケガしていてね。検査を受けたんだよ。それが心配だね。
息子さん、ケガが大きくないといいですね。
モジミリンFCもこれからだね。昔はサンパウロ州選手権で優勝もしてるからね。
昔はリバウド(元ブラジル代表の10番)も在籍していましたしね。
リバウドが居た時は強かったね。(息子さんが所属している)モジミリンFCは4カテゴリーあってね、息子は20歳以下のカテゴリーに所属しているんだよ。モジミリンFCは130人居るんだけど、ブラジルのサッカーチームは小さい子供のうちからカテゴリーに分けて同じグラウンドで練習させるんだよ。それでトップの選手を近い距離で見て成長するんだ。それで、上手い子はすぐ上のカテゴリーに行く。上手くなれば、上のチームに上がるようになっているんだ。
息子は、去年の3月に高校を卒業して、ブラジルに渡ったんだけど、僕がアパートとか全部準備しにブラジルに帰ったんだ。そこでまだ所属チームも決まっていないんだけど、サンパウロにあるグラウンドで専属のコーチを付けて練習させてね。
それでしばらくどこに入れるか悩んでいたんだけど、僕もブラジルに行って、やっと入るチームが決まったんだ。色々とローンやら契約の話をモジミリンFCとして、それでやっと契約だね。終わってから、また日本に戻ったんだよ。
それは「たかもり通信」の記事でも観ましたよ!「ゴメスさんおかえりなさい」という記事でしたね。
息子のこともあるから、また12月にブラジルに行こうと思っているよ。万が一、息子が大きいケガだったら、高森町に息子を呼んで、こっちでリハビリさせようかと思っているよ。まだ考えているけどね。
息子さんの無事を祈っています。だいぶサッカーの話に偏ってしまったので、違う内容のお話を聞いていきますね。ゴメスさんは小さい頃、どんな子供でしたか?
あまり子供らしい時間がなかったよ。8歳から仕事していたからね。14歳までは朝、学校に行って、11時まで勉強してね。学校までは7㎞あったよ。その後は仕事をしていたよ。それで少しだけ時間が出来ると、サッカーをしていた。サッカーは大好きだからね。ゴールになるものがあればできるから。でもあの時代はボールが高かったね。だから靴下を丸めてボールにしていたよ。生活は大変だったけど、楽しくやっていたよ。そして、14歳からは仕事を始めたんだ。
ブラジルではそんな若い歳から仕事していいんですか!?
今は若い人は学校で勉強して、それから働くけれど、あの時代はそんな考え方はなかったよ。やっぱりお金を稼ぐのが家族にとって大事だったからね。それでも楽しくやっていたよ。
ブラジルのどの地域に住んでいたんですか?
僕はサンパウロの田舎だったよ。サンパウロから300㎞くらい離れた場所にある街だよ。
どんなきっかけで日本に来ることになったのですか?
1990年代、ブラジルも景気が悪かったんだ。当時、僕はスーパーマーケットを2軒持っていたんだけど、不景気で潰れてしまったんだ。それで、前の僕の奥さんは日系2世人だったから、日本に行く話が出たんだ。でも日本に行くのは簡単じゃない。ビザを取ったり、戸籍謄本を揃えたり。奥さんの家族は、ブラジル政府の謄本に家族を全員登録していなかったから、難しかったね。それから2年掛かって日本に来たんだよ。
それからずっと日本にいらっしゃるわけですもんね。
父が亡くなったり、家族に不幸があった時はブラジルに戻ったけど、その時だけだね。
やっぱり遠いから、すぐチケットが取れるわけじゃないし、時間もかかるからね。今はスマートフォンですぐ電話できるからいいね。あの時は街の公衆電話から国際電話をかけていたんだけど、飯田には国際電話ができる場所が1カ所しかなかった。
街のブラジル人は、給料を貰ったら、すぐ家族に電話したいんだけど、その公衆電話に何十人も並んでいてね。自分が電話かけようと思ったら、前に20人並んでいたりね。それが1人1時間くらい電話するんだから、凄い時間が掛かったね。それで電話かけたら、向こうからの電話が聞こえないとか…あの時は大変だった(苦笑)。
よく日本ではブラジルの事を「地球の裏側」と言ったりしますからね。今はスマートフォンでテレビ通話まで出来る時代になってよかったです。
携帯電話が出始めた時、ブラジルでは街で何人かのお金持ちだけが携帯電話を持っていたよ。凄く大きいやつだったね。日本に来た時には携帯電話もあったけど、電波が悪かったね。ブラジルは今も電波があまり良くないみたい。大きい街には電波塔がたくさんあるけど、人口が少ない街には少ないんだよね。
ブラジルは国土が大きいですからね。話を仕事に戻しますね。農家をされていて楽しいことはなんでしょうか?
お父さんが農家だったから、僕も好きで農家やってるよ。
でも今はロシアの戦争やコロナもあったし、色んな物の値段が上っているね。自分で作ったものの値段は変えられないから、けっこう苦しいね。今年はこのまま続けるけど、来年からは色々と考えるよ。儲かる作物だけにするとか、米は契約している分だけ作るとか、けっこう大変だね。今、農家はみんなそうだと思うけどね。
燃料の高騰が話題になりましたもんね。例えば、肥料は幾らぐらい値上がりしましたか?
肥料は前に1500円くらいだったものが倍以上になっているよ。例えば、お米を作るときに必要な肥料は変わらないから、赤字になっちゃうね。でも、僕はまだ自分で全部やるから何とかなってるね。
そうした状況で、新しいアイデアを考えていらっしゃいますか?
今は色々と悩んでいるね。これぐらいの金額がかかるとか、いくら売り上げがあるとか、運送費とかね。もっと細かく色々あるけどね。機械を使い過ぎないようにしようとか、そうしたことをやっているね。
ゴメスさんにとって高森町は仕事がしやすいですか?
ここが好きで20何年住んでいるからね。そして、自分の好きな仕事をしているから、全然問題ないね。
この辺りは台風とか地震とかの被害が少ないのもいいところじゃないかな。例えば、愛知に住んでいる僕の友達はハウス栽培をやっているけど、台風の時はハウスが飛んでダメになっちゃった。ここで何年もやっているけど、そうした被害はないね。
農家の方にとって自然災害は大きな問題ですよね。
そもそもハウスは建てるのが高いよ。それで台風が来たら全部潰れちゃうからね。
この辺は寒さがあるけど、ストーブを炊けば、台風に遭うような被害は出ないからね。
高森町に暮らしていて、ここがいいなぁと思うところは何かありますか?
農家は忙しいからね、あんまりそんなことを思っている時間はないよ(笑)
毎日、水遣りして、成長が速いきゅうりは朝夕に収穫するからね。でも収穫前の今は少し時間あるからね。
僕は奥さん(フィリピン人の方だそうです)と仕事しているんだけど、忙しい時は奥さんの家族がフィリピンから手伝いに来てくれるね。
収穫時期によって作物の値段が変わるから、できるだけ高い時期にぜんぶ収穫しないといけないね。それで、高い値段のうちに出荷するようにしているよ。
日本は、農家を手伝ってくれる人が少ないね。昔はもう少しいたけれど、今は少ないよ。
アルバイトとか募集してもあまり来てくれないね。だから、畑も広くできなくてね。これは全国的な話だと思うんだけどね。
これだけ自然があって、畑もあって、もっと若い人達に来てほしいですよね。
そうね、もったいないよね。
高森町の外にいる若い人達に何か伝えたいことはありますか?
都会の人は、田舎にあまり行きたがらないのかもしれないけど、僕は田舎がいい。
東京は人が多いよ。こっちは寝る時も凄く静か。ビルもアスファルトも少ない。
東京に居ると時々息苦しく感じます。
田舎は人が多くないし、空気が良いよ。夏もすごく涼しいしね。大きい街はコーヒー1杯飲むのに行列しなきゃいけないでしょ。こっちならすぐ買えるよ(笑)
ゴメスさんが思う高森のおススメポイントは?
これまで他の県に住んできたけど、そこの人達よりも優しかった。最初にトラックの仕事で高森町に来た時からそうした優しさを感じたね。高森の人達は話しやすいと感じたね。だから、高森町の人達の何でも話ができる人柄だね。だから、僕はここに20年も住んでいるんだ。
ゴメスさんは、これからも高森町でお仕事を続けていかれるのでしょうね。
近所の農家さんから連絡があれば、すぐ駆けつける。こちらからも困ったら連絡する、周りの農家さんと仲がいい。
助け合いだね、「困った時はお互い様」ね。
今日は田植えのお忙しい時期にも関わらず、ありがとうございました!僕も息子さんのケガも無事を祈っております。
本国ブラジルのプロサッカーチームに加入された息子さんの話になると特に饒舌で、実に良いパパさんです。
昨今、農家さんは燃料費高騰などで苦境に立たされていますが、そんな中でも新しいアイデアを考え、お呼びがかかれば近隣の農家に応援に行く、そんな人柄が街の有名人である由縁でしょう。
タイミングが合えば僕も「ゴメス会」に参加し、一緒に街を盛り上げていきたい、そう感じさせてくれる方でした。
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写真:Noémie
文:Hattori
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※本記事は2023年6月10日時点の内容を掲載しております