瑠璃寺住職 瀧本 慈宗

瑠璃寺住職 瀧本 慈宗

瀧本 慈宗

TAKIMOTO JISHU 瑠璃寺住職
Interview

図書館員を25年間経験していたという異色の経歴を持っているものにしかできない、宗教活動があるのではないかと考えている。お寺の活動も基本的には社会教育の一環として捉えて活動している。

TAKAMORIJIN File No.024

瀧本 慈宗

TAKIMOTO JISHU

瑠璃寺住職

他のお坊さんとは異なる視点で物事を見ることができるところ

優柔不断なところ

社会教育に興味を持ち、司書の資格を取得。図書館員として働きながら、住職も務めていた。今は住職に専任し、お寺の歴史や文化を発信するだけでなく、施設を開放して催し物を開き、お寺を身近に感じてもらおうと活動している人。

高森の面白い人

瑠璃寺住職 瀧本 慈宗

瀧本さんの人生について簡単に教えてください。今は住職をされていて、ここのお寺では、ずっとご家族で後を継いでいるのでしょうか。

血縁としてつながっているのは3代だけです。祖父、父、私は血がつながっていますが、それ以前は全く世襲ではなかったですね。瑠璃寺自体は平成24年に、開基900年を迎えました。歴代住職を見てみると、私は、66代目となります。

66代目...!! どういう流れで祖父の代へとつながったのですか。

結局祖父の前の代の方には、子供がいなかったので、祖父が松本から養子でもらわれてきたという感じですね。

祖父の代からは世襲という感じですね。瑠璃寺には昔からの檀家さんがたくさんいらっしゃったのでしょうか?

瑠璃寺は昔は大きなお寺で、境内が1キロ四方もあったと言われています。ここに残っている中で、いろいろな地名や屋号からここが境内のあった場所ではないかと思わせる部分があります。
その当時はそれなりの勢力を持っていました。しかし、農地解放を機にみんな土地を手放してしまいました。なので檀家も少ないですし、決して裕福ではないんです。父も定年退職まで教員をやっていましたし。実は、私も大学を出てから公務員として勤めていたんです。

そうだったのですね。ちなみに、どのようなお仕事をされていたのですか。今も公務員として働いていますか。

図書館の専門司書をしていました。妻も同じく図書館員として勤めていて、職場結婚をしました。
平成18年に退職をして、現在は住職を専任でやっています。
それまでは、働きながら副住職という形でやっていましたね。通常は勤めに出ていて、法事や葬儀など行事があった際にはお坊さんとして務める形です。

いつかは区切りをつけなければとも思っていました。そのキッカケになったのは、両親の介護でした。介護と両立して勤めに出ることは難しいかなと思いました。

そこで妻が勤めて私がお寺に入り、介護をしていけば両立ができると考えて、本気でお坊さんをやろうと決めたんです。

すごい決断ですね。私の中では、天台宗には修行などが厳しいイメージがあります。
密教なので修行も特殊なことをされている感じがするのですが、そういったこともやられるのでしょうか。

住職になるための最低限の修行は大学の休みを使って学生までの間に終えています。卒業後に修行といわれるものに行ったのは2、3回ぐらいですね。

それ以上の本山で行われる、三年籠山行や百日回峰行などは一切やっていないですね。(笑)

そういう点では真面目にお坊さんをしているみなさんに引け目を感じながら、お坊さんの世界に入ったのかなという気はしていました。ただ社会人を25年経験しましたので、社会人を25年経験したものにしかできない宗教活動はあるのではないかと考えていましたけど。
その一つが、この施設になります。

大きな土地の中に交流施設が建てられていますね。この施設について教えてください。

お坊さんの世界に入る本気度を示すために退職金でこちらを建てました。(笑)
住職専任になった平成18年ですね。

ここは、お参りする方たちの受け入れ施設となっています。

施設ができる前までは「歴史も文化財もあるのに、ここへお参りに来てもどこへ行ったらよいのかがわからない」とよく言われました。お客さんを受け入れる態勢がまるで出来ていませんでしたね。

私も最初訪れた時、広くてどこへいけばよいのかわからなかったです。(笑)

もう1つは、ここで宗教的体験をしてもらうことですね。

住職専任になる以前は、外に勤めに出ていることをある意味言い訳にしながら、宗教的体験の場を提供するような活動はできていませんでした。(笑)
ちょっと冒険的だったのですが、お参りに来た方たちにお茶をお出しするだけでなく、事業をやりたいという方がおられればお貸ししようと考え、施設内に厨房や喫茶スペースも作ったんです。

「ここを使ってみたい方はいませんか」と募集をかけてみました。すると、私の前の記事にもなっている青山さんが名乗りを挙げてくださいました。

なるほど、そういうご縁の繋がりがあるんですね。この試みを始めて何年ぐらい経つのでしょうか。

平成19年からずっとです。青山さんは飲食業の関係で、喫茶などの食事を長い間続けられていましたね。好評だったのですが、一緒にやっておられた方が別の仕事に就き抜けてしまいました。

青山さんは、飲食を辞めた後には、国際薬膳師と国際中医師の資格を取得して活発に活動されています。

なるほど、長く続けられているんですね。青山さんはこの施設でヨガをされている方と一緒にお茶を作っていますよね。

そうですね。その方がここで青山さんの指導を受けて作られていますね。客殿をお貸ししてヨガをやり、ここで薬茶の講習を行うというコラボもやっていましたね。

こんな風にお寺の経営も無理をせずに、他の人の力を借りてやっています。

私が図書館員をやっていて良かったと思うところは、お坊さんと違う視点で物事を見ることができるようになったところです。

というのも、コロナ前は講演活動を週1回のペースで年間50回ほどやっていました。講演の内容は子育てにおける特に絵本に関するものや、一般からお年寄りに向けた本を題材としたものが多いんです。

お坊さんとしてだけの法話ではなく、本を通じて話が出来るというのは1つの強みかなと思いますね。前の仕事が図書館員であったということで頼まれたのかなと思うことが多々あります。

ということは、瀧本さんは元々本がお好きだったのでしょうか?

祖父も父も母も姉も読書が好きでしたので、かなりの量の本が身の回りにありました。

特に、その当時あまりなかった図鑑類や事典類が山のようにありました。
本が特段好きというわけではないですが、読んだ量はたぶん普通の人よりはかなり多かったと思います。

図書館員になろうと思った理由を教えてください。

図書館員になろうという気持ちは最初これっぽっちもなかったですね。
大学に入っても僧侶になることに抵抗してあえて仏教学部に行かずに、文学部の社会学科に行きました。

社会学は基本的に体験・統計・データを中心に世の中を見るという学問なので、宗教と相反する部分に面白みを感じました。中でも社会教育に興味があり、社会教育主事になろうと考えていました。

ところが生憎、私が卒業する時には社会教育主事を募集している町村が近隣になかったんですよね。

それでも、当時はとなりの飯田市で現在の市立中央図書館が建設された年で、新たに司書を募集していました。
在学中に時間の余裕があり司書の資格をとっていたこともあり、図書館も社会教育の一環だからそこから入ってみる手もあるなと思って、司書に応募してみました。

図書館員になったのは偶然だったんですね。そこで何年ぐらい働かれたのですか。

25年間、ずっと中央図書館で働いていましたね。(笑)

中央図書館と家を行き来する生活だったんですね。具体的にどういうところに面白味を感じていましたか。

市民側から要求が出たものに対して図書館側が応えるというスタンスでした。

その当時行っていた文章の講座、婦人文庫や読書推進活動、目の見えない人たちのための声の本づくりなどは、利用者からの要望から出たものです。

自分が望んでいた社会教育の実践の場がここにあるのではないかと思った時に、自分の中で考え方がガラリと変わりました。

資料提供を中心に図書館に対しての可能性をものすごく感じたので、徹底的にやりました。
面白くてしょうがなかったですね。

また、飯田市には人形劇フェスティバルがあって、人形劇フェスティバルの中で、絵本作家の加古里子さんを招いて、加古里子さんの作品を展示して企画展をやってみるのはどうだろうかとこちらから提案をしました。

我々は一切、表に出ずに市民のみんなが企画をし、実際の運営、イベントの司会まで最後までやり切りました。行政側が意図的にあるものに力を注ぎ込むことによって、それをモデルケースとして拡げていくことが社会教育だと思っています。大成功でしたよ。

図書館での活動は今やられていることにも活きている感じですか。

もちろんです。宗教法話を話す場合にも、社会教育の一環としてやっていると自分では思っています。

みなさんがただ聞くのではなく、それをどう自分の生活の中で実践に活かすのかということですね。みなさんに明確に伝えたいことは、ものの見方を変えることです。

子供と大人のものの見方の違いを絵本の見方から学びました。大人では全然反応がない絵本を、保育園の幼児は、大騒ぎをして見るわけですよ。

子供はそこに何があるのか常に観察する目でものを見ています。
大人はどちらかというと、好きか嫌いか、または鑑賞する目で見ていますね。

その後、路上観察学会を知り、街中を常に観察する目で眺めてみる習慣を身に着けましたね。みなさんからすれば、路上観察のどこが面白いのかと感じるかと思いますが、基本自分が面白ければそれでいいんです。

全然面白そうに見えないでしょう。(笑)

いえいえ。普段何気なく見ている町並みをじっくりと見ることは大事だなと思います。

これは飯田市にある種のお店なのですが、「ヨイタネトマツ」とカタカナで書かれてますよね。逆から読むと、「ツマトネタイヨ」になります。

こう読めることを知っていて、宣伝効果を狙いわざとカタカナ表記にしていますよね。

私の講演の中では、こういう路上観察の様子をスライドで見せながら話を進めることが多いです。

習慣的に、観察する目でものを見ることの大切さを伝えています。

社会教育、生涯学習などいろいろなものがすべて教育になるということを伝えているのだなと感じます。このお寺としてこれからやりたいことや今後展開していきたいことはありますか。

寺として継続していかなければなりませんので、後継ぎの問題が大きいです。
会う人からその度に言われます。(笑)

後継ぎの問題がクリアになったとしたら、後世に残していく方向だと思うのですが、どういうお寺にしていきたいですか。また、瀧本さん自身がどういったことを発信していきたいとお考えですか。

1つにはこのお寺が抱えてきた歴史と文化財を守っていきたいという思いがあります。

最近では持っている文化財をみなさんに見ていただく場を設けています。

檀家さんを中心に、この文化財への理解をしてもらい、守っていただくことをまずしなければなりません。

もう1つは、あくまでお寺は社会教育の場であるということです。

その中で、一般に向けての開放や情報発信をしていかなければならないと考えています。

今のスタイルは割と堅苦しくなくて理想形です。外から講演を頼まれれば、気楽に行きますし、ここへ来たいという人はいくらでも受け入れますよ。

このスタイルを今後も続けていきたいと思います。

これだけ歴史があるということを私も知りませんでした。歴代66人もの住職の方がいらっしゃるというのは知らない人も多いと思うので、1人でも多くの人がこの寺を理解し、身近に感じられるように、活動を続けていってほしいと思います。貴重なお話をありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。また遊びにいらしてくださいね。

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写真・文:Yusai Oku
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※本記事は2023年4月27日時点の内容を掲載しております