漫画家アサミネ 鈴

漫画家アサミネ 鈴

アサミネ 鈴

SUZU ASAMINE 漫画家
TAKAMORIJIN File No.015

アサミネ 鈴

SUZU ASAMINE

漫画家

絵を描き続けること

熱中しすぎて、絵を描き続けてしまうところ

小さい頃から絵を描くのが大好きで、中学校の先生から認めてもらったことがキッカケで漫画家の世界を志す。東京でアシスタントを経て、歴史漫画でデビュー。20代後半で東京から故郷である高森町に拠点を移し漫画家として活動している。

月夜平展望台

漫画家アサミネ 鈴

本日は、よろしくお願いします。部屋入った瞬間でわかるんですけど、イメージしていた漫画家さんのお部屋でした。漫画家はずっとやられているのでしょうか?

よろしくお願いします。そうですね。もう長いです。独立して10年ぐらいにはなるんですけど。高校卒業して新潟県内にある漫画の専門学校に入ってからになります。

なるほど、高校を卒業されてから漫画の専門学校に行ったんですね。今、失礼ですけどおいくつ何でしょうか?

36歳になります。当時通っていた専門学校では、アシスタントとして外部へ積極的に派遣しますよという制度があって、なので18歳の頃から実践は積んでいました。学校も「うちはうまい子をひいきします」と言い切る感じでした。学校に行くと1年で教えることを、現場にいくと3日で覚えて帰ってくるからって言われたりしました。(笑)うまい子には、交通費は全部学校もちで免除しますって感じでした。

そんな実践に特化した学校があるんですね。超実践型で、実力主義の感じですね。(笑)

そうなんですよね。そこで私はありがたいことに東京に派遣させてもらいました。

10代の頃から、絵がお上手だったんですね。生まれは高森町で、昔から絵が好きだったのでしょうか?

絵を描くのが好きだったし、小説を読むのもけっこう好きでした。映画でネバーエンディングストーリーってありますよね?その小説を小学校4年生の時に親に買って貰い、読んだらすごくおもしろくて。そのうち漫画も読み始めました。

それがキッカケってことですよね。何がきっかけになるかわからないですね。

面白いですよね。気づいたら、えらいところまで来てしまいました。(笑)

かれこれ18年ぐらいは絵を描き続けてるということですよね。すごいなぁ。

そうですね。専門学校もいれるとそれぐらいです。

中学校、高校時代にも絵を描いていたんですか?

そうですね、ノートとかに子供のときからずっと描いていました。中学生の時、それを担任の先生が見ていて、「そんなに好きなら夏休みの自由研究に漫画を描いてこい」って言われたんですよね。それが完成するまで、やってこいといわれて描いたのが、初めて描いた漫画かもしれないです。

その漫画はまだあるんですか?好評だったんじゃないでしょうか。

好評でした。そしたら先生に「せっかく描いたんだから、雑誌に出しなさい」と言われました。(笑)出したらやっぱり、年齢も低かったこともあるんですけど掲載はされず、でも編集部から名刺が送られて来ました。

すごい原体験ですね。才能を見出してくれた、担任の先生には感謝ですね。

そうですね、感謝です。そういえば、ここ2、3年前なんですけど、当時の担任の先生が校長先生をされている時に、地域のキャリア教育のガイダンスで講演してほしいと頼まれたことがありました(笑)。職権乱用じゃないか、なんて思ってますけど(笑)

でも、その先生がいなかったら、もしかしたら漫画家になっていないかもしれないですよね。「認められる」という経験って大きいじゃないですか?

ほんと、そうですね。うちのところではダメだよとか普通に言われますけど、認められたのは大きかったですね。

デビューされるまでは、どのような流れだったのでしょうか?

最初はアシスタントとして作家さんの作品の背景や仕上げ作業を手伝っていました。その後月刊誌から別の出版社の週刊誌のレギュラーの方に入りました。その時の先生が、真島ヒロさんでした。そこでアシスタントを2年ぐらいやらせてもらいました。デビューしたのは、25か26歳だったかな。

どのような作品でデビューされたのでしょうか?

当時世間でちょうど戦国時代のブームがきていて、それの短編集みたいなものを出すから描かないか?という話だったんですよね。編集部の方から持ってこられた企画に漫画を出して、そこでデビューしたのがはじまりですね。

素人的な質問で申し訳ないのですが、例えばわかりやすいところ言えば、「ワンピース」のように、自分で自分の作品を出すのは稀なことですか?。そこからヒット作をってなるとかなりさらに難しいことですか?ごく一般の人たちからすると「漫画家」は、そういった人たちを連想すると思うのですけど・・・。

そうですね。けっこうあそこまで売れるってなると稀です。週刊誌でトップを走っていて、あれだけ売れるとなるともうレジェンドですよね。

最初は、「企画でこれを描いてみませんか」という依頼を受けて、それを描いてデビューする人の方が多いってことですね?

最初はやっぱりそうですね。結局のところ、こういう企画があるんだけどやってみないかというのから、描きたいものが描けるようになるまでには結構、時間がかかります。

やはり、そうですよね。今は自分でもやられているんですか。描きたいものとか、オリジナルの漫画もやられているんですか?

そうですね、オリジナルのものもやっていて、4月から「マンガ王国」というアプリで連載を始めています。一応、原案自体はあるんですけど、こういうストーリーですよっていうだけで、後は好きに考えてくださいという感じですね。

そうなんですね。ちなみに月で、どれぐらい描いてるんですか。何冊ぐらい描くんですか?

ちょっと今は準備期間中なので、明日やるイベントの伝記を4ヵ月程度で100ページ、それと並行して連載の方の漫画を挙げているのが30ページ程度なので、合わせて月に50ページくらいですね。伝記などの本を書くときは、確認のチェックが入ったりするので、自分のペースでは進められないんですよね。書き直しもありますし。

伝記を一冊作るのに、半年はかかるってことですね・・・!

そうですね、だいたい半年目安で考えておかないと、えらい目にあうなと思ってます。(笑)

漫画家さんのドキュメンタリーとか、手塚治虫先生や赤塚不二夫先生のものとか、過去に見たことがあるんですけど、「締め切りを守らない」というシーンがありましたが。(笑)

そういう作家さんもいらっしゃいますよ。でも、それは稀ですね。大御所の先生じゃないとできませんよ。出せば、売れるからというのもあるかもしれません。新人さんがやったら即クビですからね。(笑)

そうなんですね。漫画の世界って表面上にあるものや大衆がイメージするものと大きく異なるんですね。漫画とは離れた話をお聞きしますが、いつ頃に東京から高森町に帰って来られたんですか?

デビューして、自分が27か28歳ぐらいの時です。その頃から漫画業界でも、アナログで自分で描くよりかは、パソコンの作業の方に移行していた時期でした。だったら、東京じゃなくても描けるかなって思って、こちらに帰ってきたんですよね。私も一人っ子だったので、結局家に入らなければならないということで、そういう理由もあって帰ってきました。

今は、結婚もしてお子さんもいらっしゃいますか?旦那さんは、同業の方だったりするのでしょうか?

今は、2人ですね。旦那さんは、材木屋さんです。たぶん同業者は無理だなと思っています。絶対喧嘩になりますし、噛み合わなかったら終わりだなと思っています。(笑)

高森町も関連した漫画もお描きになったいると風の噂でお聞きしましたが。

そうですね、高森とか飯田下伊那の有名人たちをシリーズで伝記にしたいとのことで、お仕事をいただいております。小中学校向けの地域教育の副読本にしたいという話です。

いいですね。私も、小さい頃は図書館にある歴史漫画をすごく読んでいました。

そうなんですよね、ひと区画というか図書館にある漫画の本ってそれぐらいなんですよね。でも、今の子どもたちは漫画自体を読まないとも言われているんですよね。アニメとかがメインになっているんです。去年か、「鬼滅の刃」が流行った時に、初めて漫画本を買いましたっていう人たちがけっこう多かったみたいです。

もっと読んでもらえるようになって欲しいですね。ご自身の子どもたちには、漫画家になって欲しい、なりたいなんて声はないんでしょうか?

子供がまだ3歳と1歳なので。上が女の子で、下が男の子と、まだちょっと手が放せないのと、まだまだ将来のことを考えられるような歳ではないですけど、好きなことをやって欲しいというのは、ありますね。

漫画をやりたいっていうならやってもいいって感じですね。

やってもいいんですけど、好きなことをやるんだったら、最後までちゃんとやりなさいよというのはありますね。

説得力ありますね。(笑)

私も好きだから続けれているのかもしれませんが、描いているうちに、嫌になることだってありますけど。この仕事が終わったら「絶対漫画を辞めてやる」と思うこともあります。(笑)またお仕事の依頼が来るからやろうかなと思うんですよね。

「自分の得意なことが仕事になる」ってすごいことだなと改めて感じました。ありがとうございます。いろいろとお伺いできたので、これをまた記事にするのが楽しみです。素敵な絵を描き続けてくださいね。高森町を題材にした、漫画もすごく楽しみにしています!

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写真・文:Yusai Oku
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※本記事は2022年7月1日時点の内容を掲載しております