糸操り人形師 竹田扇壽

糸操り人形師 竹田扇壽

竹田扇壽

TAKEDA SENJU 糸操り人形師(竹田扇之助さんの最後の弟子)
Interview

国際的に町の名が知れ渡り、ここの風景が海外の人たちが来る魅力に育つといいな。
ここの空のように、目標、夢はいっぱい広がっていきます。

TAKAMORIJIN File No.019

竹田扇壽

TAKEDA SENJU

糸操り人形師(竹田扇之助さんの最後の弟子)

人形劇

お金に弱いところ。

人形を自ら作成し、その人形に命を宿らせたかのように操ってしまう人。コロナの影響もあってなかなか公演ができなかったが、これからアクティブに活動していこうとしている。ブルガリアのソフィアに人形劇で留学をしていた過去からブルガリア語も話すことが出来る一面も。人形劇を広める活動に日々情熱をかけている人。

アグリ交流センターから見た景色

糸操り人形師 竹田扇壽

本日は、よろしくお願いします。本名ではなく「竹田扇壽」という名前で活動されているということで、お名前の由来と、今どのようなことをされているのかをお聞かせいただけたらと思います。

私は、糸操り(あやつり)人形師として活動しており、竹田人形座主宰・座長をしていた竹田扇之助の最後の弟子になります。竹田の名前を継ぎ、扇之助の「扇」という字に「壽」というおめでたい字を加えて竹田 扇壽という名前を決めて頂き、名取になりました。

座長の扇之助が亡くなり、私が竹田の技術の継承者ということで竹田糸操りという名前で活動させて頂いています。

師匠という大元がいらっしゃると思うのですが、その方が初代ではなく、ずっと代々続いていたのですか。

はい。竹田扇之助の師匠が、竹田三之助という方で、その師匠にあたるのが、九代目結城孫三郎という方です。

その方が、今私が継いでいる竹田の流れを引く糸操り人形の「結城座」の座長をしていました。元の竹田座は17世紀にからくり芝居を創設した竹田近江という方からはじまりましたが、その後途絶えていました。

九代目孫三郎氏の後を継ぐ結城座の跡目になる人は誰かを決める前に、九代目が亡くなりました。順当にいけば、九代目孫三郎氏の下で右腕として活動されていた結城孫太郎さん(後の竹田三之助)が後を継ぐのではないかといわれていたのですが、血縁関係の中で糸操りをされる方が現れて、その方とお家騒動が起きました。結果跡目は血縁者に受け継がれ、現在まで続いています。

孫太郎さんが結城座を脱退し、結城の名を返上して独立し、竹田三之助と改名したことで昭和30年に竹田人形座が復活したんです。

そうなんですね。操り人形でも竹田系は、何か変わっているところがあるのでしょうか。特徴というのはあったりしますか?

17世紀に戻った話になると、基本的には文楽のかたちで、大きな人形で、人形浄瑠璃を行うものになります。明治時代に活躍した九代目結城孫三郎は、従来の人形をもっと小型にして今の60、50センチ程度の形に改良しました。それから東京で人気が出て、弟子を集めて興行していました。

そうなんですね。では、竹田さんの生い立ちと糸操り人形を始めたきっかけをお聞きしてもよろしいでしょうか。

3歳まで父親の故郷である上伊那郡宮田村に住み、その後高森町に引っ越しました。高校は、飯田工業高校(現在は飯田長姫高校と合併)に通っていました。高校を卒業してから諏訪東京理科大学に進学し、3年生まで在籍して中退しました。そこから3年間工場で仕事をしていました。

扇之助師匠と出会ったのはいつですか。

師匠と初めて会ったのは中学生の時です。写真家の父親が仕事でよく元善光寺の近くにある人形館に出入りしていて、私は扇之助記念人形館のポストカードの撮影の手伝いに一緒に行っていました。そこで師匠に出会ったんです。

当時師匠から、糸操り人形を続けられる後継ぎがおらず、今後は公演をなくして記念館の運営のみやっていくという話をされました。その時の私はまだ糸操り人形を始めようという気はなく、そうなんだなあ、今後は人形劇を見れなくなるんだなあと思うだけでした。

大学中退後サラリーマンをしていましたが、26歳の時にリーマンショックを経験し職を失いました。これからの時代は何か手に職をつける方が良いと考え、職を探すなかで師匠のことを思い出しました。サラリーマンをしていた頃にも師匠に会う機会があり、その時も後継ぎがいないことを話していたので、私は人形の世界に入ろうと決意し、師匠の元へ行きました。
最初は断られました、26歳からでは遅いと。それでも何度もお願いに行ったり、人形講座に通ったりして師匠との接触を続けているうちに知識も増え、次第に師匠から技術を教わるようになりました。そして再度師匠に弟子入りをお願いしたところ、骨をうずめる覚悟でやりなさいと弟子入りを認めてくださいました。

そこから糸操り人形を始めて、名前を頂いたということですね。弟子になられてから海外に行っていたと伺ったのですが。

スペインのトロ―サという都市で、日本人形を展示する企画があり、日本全国の人形劇団の人たちに声をかけて、できるだけ多く劇団の人形をスペインに送りました。当時無名の私は竹田扇之助の後継ぎであることを知ってもらうため、このとき初めて「竹田扇壽」という名前をいただき、名取になりました。

飾り付けにスペインに行って、展示期間中もトローサで地元との交流を重ね、操った獅子舞で、地元新聞にも紹介していただきました。滞在期間中、竹田扇之助が国際的に知られた人形師であることを再確認することになり、竹田継承の思いがより強くなりました。

おお、すごく壮大なプロジェクトですね。人形は何個くらい送ったのでしょうか。

全国の人形劇団の人形でしたので、何体だったかはちょっと見当がつかないですが、竹田人形座からは20〜30体ほど送りました。
トローサでの企画が好評に終わり、帰国後に師匠が、自身が管理している飯田市の扇之助記念人形館の今後の管理を私ができるようにと飯田文化会館職員に働きかけてくれたのですが、「扇之助先生がお辞めになったあとはこの建物を管理する人を雇う予定はありません」との返事でした。そこで師匠が「海外で活躍の場を見つけて、独立しかないね、海外へ行きなさい」と提案してくれました。

私は人形劇のデザインや演出、ストーリー作成を学ぶ必要があると考え、以前飯田人形劇カーニバルにブルガリアから糸操り人形を研究している第一人者の方が来られ、師匠がその方とお会いしていたことを知り、その方にブルガリアで人形劇の勉強をしたいという話を伝えたら、扇之助先生のお弟子さんならすぐ来て学んでくださいということになりました。(笑) 

それがきっかけで2013年、私が29歳の時にブルガリアの国立演劇映画芸術大学(NATFA)舞台美術学部人形劇学科に入学しました。

大学側に配慮いただき、最初は毎日先生とマンツーマンでブルガリア語を勉強しました。1年後に、舞台美術学部の人形劇学科の授業を取り始めたのです。

大学を卒業するには、自分の人形劇を作らないと卒業できません。私はブルガリアで知られている日本昔話で一番有名な「鉢かづき姫」というお話で劇を制作したところ、すごく人気が出たんですよね。
そして、私が卒業した後も劇の役者さんたちがその劇を続けたいという希望があり、私が人形を置いていくので続けてくださいと伝えたところ、「扇壽パペットカンパニー」という名前で劇団をつくり活動してくださることになりました。今でも、一寸法師などを題材に劇を作り現地で公演を行っています。

今は竹田扇壽さん一人で活動されているのでしょうか。現状は、公演だけでやっているのか、お仕事をしながらなのかどういう感じでやっているのですか。

はい。東ヨーロッパでは糸操り人形はとても盛んですが、日本だと役者がほとんどいないため、現在は一人で公演することが多いです。今は、アルバイトをしながら活動しています。(笑)

二足の草鞋を履きながら、糸操り人形だけでは食べていくのは難しいという状況ですよね。

そうですね、コロナ渦ですので。とにかく公演の企画は人形の稽古に時間がとられるので、難しくて苦しい状況が続いています。ですが、とにかく稽古をしないとお客さんにいいものを見せられません。それでも2,3か月前から公演を企画しても、直前になって中止になってしまうこともあったりと。

結局、その3か月間の給料は、何も入ってきません。そうなってくると何もお金が入ってこない状況なので・・・。今は、アルバイトしながら耐えていこうという感じです。(笑)

今も、制作を続けているものはあるのですか。

9月25日に公演が入っていたのですが、コロナがまた広がってしまって、おととい「中止」と言われてました。(笑)

公演を企画しては消えてということがここ2年ぐらい続いているという感じなのですね。普段は、こちらにいらっしゃるのですか。

ブルガリアから帰ってきてからは、宮田にある実家が空き家になっていたので、しっかりした舞台を作って公演をしたいという願いがあり、そこをベースに活動していました。息子も生まれ、宮田で家族3人が住むのは生活費の無駄ということで、今は両親のいる高森の家に帰ってきています。

大道具はかなり大きく、置く場所がないので、こちらのアグリ交流センターをありがたくお借りしています。

公演の情報などはホームページを見たらわかりますか。

公演が企画できれば、ホームページにアップするようにしています。

随時、HPにアップされるということですね。今後、未来に対して竹田扇壽さんは、何かやっていきたいことやブルガリアと関わっていきたいとかあると思うのですが、これからやってみたいことや夢や目標はあったりしますか。

ここにちょうどアグリ交流センターがあり、建物もきれいですし、立地はあまりよくないですけど、すごく好きです。(笑) 

私の展望としては、ここにもう少し人が入って来れるようにしていきたいという思いがあります。それも町長さんとお話をしていきたいと思っています。

巡演公演は人形や舞台の大きさで制限されてしまいます。
常設だとそれらを気にせずにいいものができます。常設で、公演ができるようにしたいですね。ブルガリアの仲間と共に、いつか高森町での公演が実現して、国際的に町の名が知れ渡り、ここの風景が海外の人たちが来る魅力に育つといいな。ここの空のように、目標、夢はいっぱい広がっていきます。

ありがとうございます。とても素敵な目標ですね。人形劇の際に、こういうところを見てほしいなどの希望はありますか。

人形がメインですから、人形の動き、私の人形を見て心を動かして頂ければなと思っています。

操り人形と人形劇に関しては今後も続けて、誰か見つかれば後世に残していきたいと   いう考えもありますか。

よほど熱心に私みたく、それで生計を立てていくという覚悟を持っている若い人がいれば、教えますよ。(笑)

この記事を見て、少しでも竹田さんの人形劇に興味を持ってくれたら嬉しいです。今日はありがとうございました。

そうですね、タイミングをみてコロナが収まったら、たくさんの人に見に来ていただきたいと思います。こちらこそありがとうございました。

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写真・文:Yusai Oku
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※本記事は2022年11月22日時点の内容を掲載しております