おぶすなアートプロジェクト代表 久高 徹也

おぶすなアートプロジェクト代表 久高 徹也

久高 徹也

TETSUYA KUDAKA おぶすなアートプロジェクト代表
Interview

沖縄から高森町へ。大学の先生から紹介された縁もゆかりもない町は、人が優しくて大好きな町になった。

これからはこの街に恩返しがしたいと思っている。

TAKAMORIJIN File No.006

久高 徹也

TETSUYA KUDAKA

おぶすなアートプロジェクト代表

ずっと叩き続けることのできるマラソン大太鼓

整理整頓

沖縄で生まれ育つ。大学院時代の先生に高森町行きを薦められ、新卒で高森町蘭植物園に就職。そのまま植物に囲まれた生活になるかと思いきや、踊りと太鼓の世界へ。高森で20年近く移住者として関わってきた。現在は、「OBUSuNA ART PROJECTおぶすなアートプロジェクト」を立ち上げ、代表として高森町を軸に精力的に活動している。熱いハートを持った持ち主。太鼓の生徒さんからも指摘されるほど、整理整頓が苦手。(笑)

蘭植物園だったところで運営されているカフェ「いるもんで」

おぶすなアートプロジェクト代表 久高 徹也

まず何をしているのか、どういった活動をしているのかを説明していただいてもよろしいでしょうか?

普段メインの仕事としてやっているものは、子供の太鼓のグループに太鼓を指導することですね。それこそコロナ前は何曜日はどこの団体っていうのがほぼ毎日入っていました。今はコロナの影響もあって週3日ぐらいのペースになっています。

教えていらっしゃる。ということは、太鼓の講師なんですね。

はい。あと今はほとんどありませんが舞台。それらが普段仕事としてやっていることなんですが、最近「おぶすなアートプロジェクト」というプロジェクトを立ち上げました。直接仕事につながるような取り組みはまだできてないんですけど。地域、特に飯田市・下伊那地域で活躍しているアーティストさんを中心に、新しい繋がりを作って、コラボしていったり、人材を育成したり、コロナが収束してまた元に戻ったらたくさん舞台もしたい、という想いがこのプロジェクトの主なコンセプトです。

面白い取り組みですね。もう少し詳しく教えていただけますか?

具体的に動いている取り組みとしては、ビデオパフォーマンスコンテストがあります。オンラインで募った作品をYouTube上で公開し、コンテスト形式で賞を決めて賞金を出します。さらに、最優秀賞に選ばれた作品には、ある凄い人からのビデオメッセージが送られることになっています。

そういう形でオンラインならではの楽しみ方も今できる範囲でやりながら、将来的には、そのコンテストにパフォーマーまたは演出・指導などで関わった人たちを集めてコンサートとかが出来たらと思っています。

今は任意団体でやられているのでしょうか?

はい、今のところ任意団体です。法人化出来たらなあ、というのとむしろ任意団体の方がフットワーク軽くていいんじゃない?というのと両方意見があるので、その辺はまだ検討しながら活動していきたいと思っています。

たくさんの人が関係人口のように関わるプロジェクトでいいですね。

これまでの方法でこの地域でだけ活動していると、普段関わることの出来る範囲って結構限られちゃうので、これからはジャンルや地域を越えてアーティストの皆さんと繋がっていきたいです。昔は陸の孤島と呼ばれていたこともあるらしいですが(笑)、今は交通の便も良くなりましたし、それこそオンラインを利用すれば遠くの方とも繋がれますし。

そういう想いで人の輪を広げていった先に「おぶすなアートプロジェクト」が生まれたんです。おぶすなは遠山郷に残る神楽歌に出てくる言葉で、一般には産土と書いて「うぶすな」と読まれます。生まれ育った土地とか、その土地を守っている神様(産土神とも言う)というような意味があります。地域にとって自分たちが何かしら貢献できる存在になりたいなっていう、そんな想いも込めて名前を付けました。

アートを使って、地域おこしというかそういったこともやりたいと思っています。

凄いですね、勢力的にやられていて。将来的に、これは絶対にやりたいということはあるのでしょうか?

それは、やっぱり舞台ですね。ほとんどが舞台に関わって活動している人たちなので。例えば、メンバーの伊吹さんは宝塚歌劇団出身の方なのでミュージカル調の舞台が専門ですし、私は太鼓なので日本風なのが得意です。

(チラシに指を差しながら)この方は、オペラ。この方は絵画、画家さんだからライブペイントとかもするんですけど、この人もバリバリ本職の舞台照明とかもやられていたりするので。他にもたくさんのメンバーが集まって下さったのでいろいろと出来そうな気がしています。

すごいたくさんの方が関わってくださっているんですね。久高さんがなんで太鼓とか踊りの道に進んだのか、という部分もお聞きしていいですか?多分いきなりプロジェクトのことを聞くよりも、読み手の方もそこを知りたい、っていうところもあるので(笑)

そうですね。それは、話すと長くなるんですけど(笑)もともと高森に出てきた時は、産業課蘭植物園係という肩書、つまり役場の職員だったんですよ。今はアグリッチという、こないだモッコの制作でちょっと注目を浴びましたけど、そこの植物園の学芸員になるために高森に移住してきました。その前は、沖縄にいました。沖縄生まれ、沖縄育ちなんです。通っていた琉球大学の先生に、長野の高森町という所で新しい植物園の学芸員を募集しているから、と薦めて頂きました。

おお、沖縄だったんですね。高森に来て何か心境の変化はありましたか。

実は出てくるまでは、ほとんど長野のことは知らなかったんです。それに、沖縄が大好きで沖縄以外で就職することを考えていなかったので一度お断りしたんです。そしたらその先生が「いや長野は長野ですごい面白い場所だよ、植物だけではなく生き物やってる学者からすると、例えば北海道、小笠原、沖縄などは人気が高いけど、長野は下手するとそれらに匹敵するぞ」と言われて、「え、そんなに面白い場所なんですか?」って(笑)。

実際、標高差がすごいし、東西の分かれ目でもあるし、いろんな植物が入り混じっていて、沖縄に負けないくらいたくさんの種類があって。基本的にはこの辺りは寒い地域の植物が多いんですけども、そういう意味でも沖縄と全然違ったんですよね。

だから、来たばっかりの頃は知らない植物ばかりですごく興奮しました。すぐに長野県が大好きになって(笑)休みの日は山を歩くみたいな。ほんと植物漬けの、植物だけの生活をしていました。

ただ、そんな中で、町の職員としてお手伝いしていたあるイベントで踊り・太鼓と出会ってしまいました。その詳細は本当に長くなるので割愛しますが(笑)仲間たちと踊りのグループを立ち上げたり、やってみたらすごく楽しかったというか、運命的なものを感じましたね。例えば、その後最初のお師匠さんになった方が実は植物園のすぐ裏に住んでらっしゃったり。

そして植物園を退職した28歳のときから本格的に踊りと太鼓にのめり込んでいきます。今、44歳なので16年踊りと太鼓をやってきたことになります。

そんな訳で、植物園は辞めてしまいましたが、当時お世話になった方々はもちろん、高森町には心から感謝しています。大学を出てすぐで社会人の経験もないし、大学で植物の勉強はしていたけども、そういう植物園で働くというのも当然はじめてだったにも関わらず温かく迎えてくれたんです。そして、町の職員としてお仕事をやらせてもらって。結果的には私が退職したあと数年して植物園は閉園しちゃいましたが、私自身は地域に受け入れてもらえて今までこうやって20年もやってこれた。だからこそ、恩返しの意味も込めて「おぶすな」のプロジェクトは成功させたいと思っています。

最後に、育ててくれた高森町やアートプロジェクトなどで大切にしていきたいことなどあれば教えてください。

いま思うと若い頃はあまり「一期一会」という言葉には、ピンときてなかったんですけど、今では、その言葉がすごく重く感じられます。あの時にあの人が言ってくれたことをとりあえず一生懸命やってみたら今に繋がっている、みたいなことの連続なので。プロジェクトを立ち上げる時にもその経験が生きていますね。これからも、そういった出会いを大切にしていきたいと思っています。

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取材・撮影:Yusai Oku
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※本記事は2021年11月26日時点の内容を掲載しております